涙なしには観られない。菅野美穂の真骨頂がここにある----『90メートル』
『90メートル』 3月27日(金)全国公開
近年、オリジナル脚本の作品が減少してきた。映像化しやすい人気原作に頼るのではなく、ゼロから世界観を紡ぎ出すには、監督と脚本家の並々ならぬ熱量と覚悟が必要だからだ。だからこそ、本作『90メートル』の存在は貴重だ。菅野美穂が主演を務める本作は、監督自身の実体験をベースにオリジナル脚本として生み出された。
物語の核となるのは、思春期を迎える息子と母の姿。互いを深く思い合いながらも、二人の中にある「溝」が、緻密に計算された「間」と丁寧な描写で描き出されていく。オリジナルだからこそ到達できた、切なくも温かい、親子の絆の物語の深淵を紐解いていきたい。
本作の根幹を成すのは、監督が長年温めてきたというオリジナル脚本である。原作モノにはない、観客の想像の斜め上を行く展開や、特定の季節感、あるいは家庭内の些細な空気感までが、緻密にセリフとト書きに落とし込まれている。
特に秀逸なのは、物理的な距離である「90メートル」という設定が、そのまま親子の心理的な距離感とシンクロしていく構成だ。思春期という、子供が自立に向けて親から離れようとする時期の、母の切ない戸惑いと、息子の言葉にならない焦燥。それらが、劇中の張り詰めた「間」によって、観客の心にじわじわと波紋のように広がっていく。台本上の言葉を超えて、映像の中に言葉にならない想いを閉じ込めること----これこそが、オリジナル脚本が持つ本質的な力だと言える。
この緻密な脚本を命の通った物語へと昇華させたのは、主演・菅野美穂の圧倒的な演技力に他ならない。彼女が演じた母は、思春期の息子に対して愛情を注ぎながらも、その関係性が変わりゆくことに戸惑う、等身大の女性だ。
注目すべきは、セリフ以上に語る彼女の「表情」と「佇まい」である。息子を遠くから見つめる視線の揺らぎ、ドア一枚を隔てた向こう側から発せられる呼吸の気配。言葉にならない言葉を、彼女は全身を使って表現している。時には激しく感情をぶつけるのではなく、静かに、しかし深く魂を震わせる演技は、観客の心に母親としての切なさや葛藤をダイレクトに突き刺してくる。菅野美穂という名優の、成熟した表現力を改めて痛感させられる一作だ。
この物語が特に心を揺さぶるのは、主人公の佑がバスケットボールという「未来への夢」と、難病の母を介護するという「現在の現実」の狭間で引き裂かれるからだ。手元にある呼び出しチャイムが鳴るたび、彼は東京への夢を諦めそうになる。その絶望とも言える状況を、菅野美穂演じる母・美咲は、ベッドの上からただ見つめることしかできない。
しかし、24時間ケアの体制が整ったことで、物語は静かな転換点を見せる。ここでの菅野美穂の演技は圧巻だ。息子に「好きなようにしていい」と告げる時の笑顔は、母としての最大級の愛であると同時に、もう子供の世話をできないという、一人の人間の脆さが入り混じった複雑なものだった。その笑顔の裏側にある哀愁を、これほどまでに表現できる女優が他にいるだろうか。正直、涙なしに観賞することは回避できない作品だ。
『90メートル』というタイトルが示す物理的な距離は、夜明けとともに解消されるかもしれない。しかし、母と子の間に流れた時間と、積み重ねられた想いの距離は、映画を見終えた後も観客の心の中で温かく残り続ける。オリジナル脚本だからこそ実現できた、この静かで、しかし魂を揺さぶる傑作を、ぜひ劇場で体感してほしい。
(文/杉本結)
『90メートル』
3月27日(金)全国公開
監督・脚本:中川駿
出演:山時聡真、菅野美穂、西野七瀬、南琴奈、田中偉登
配給:クロックワークス
2025/日本映画/116分
公式サイト:https://movie90m.com
予告編:https://youtu.be/jyw8r8GxFc4
©2026 映画『90メートル』製作委員会

