『水道橋博士のメルマ旬報』傑作選 角田陽一郎「岡村靖幸と19才の僕-激しく健気な頃の夏を取り戻せ-」

芸人・水道橋博士が編集長を務める、たぶん日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』。一号に48人の豪華連載陣が集うという、定期刊行物としてはムチャクチャなスケールで話題をよんでいます。


そして、これまで過去の傑作選企画として、バックナンバーより選りすぐった神回を限定無料公開してまいりましたが、今回は、最新号『水道橋博士のメルマ旬報』Vol85より配信されたばかりの、TVプロデューサー角田陽一郎さんによる原稿を、無料公開させていただきます。角田陽一郎さんによる、岡村ちゃんへの偏愛に満ち溢れた原稿、今こそ是非読んでほしい内容です。


そして、2016年5月23日(月)、皆さんも是非!各々の夏を取り戻すために「オトナの!フェス2016」(Zepp DiverCity Tokyo)に足を運んではどうでしょうか。
大の大人が、これだけ熱狂して働いてますよ!
(水道橋博士のメルマ旬報 編集/原カントくん)


以下、『水道橋博士のメルマ旬報』Vol85 (2016年5月10日発行)より一部抜粋〜


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角田陽一郎 『オトナの!キャスティング日誌』
~"岡村靖幸と19才の僕-激しく健気な頃の夏を取り戻せ-"~


皆様おはようございます。TBSテレビでバラエティプロデューサーをやっています角田陽一郎(かくたよういちろう)といいます。
今日はめちゃめちゃ個人的な想いを書きます。それは僕が岡村靖幸さんの音楽が大好きだってことです。

1989年、19歳の僕は浪人でした。当時今井美樹さんが出演するホンダの軽自動車TODAYのCMで
"君が大好き あの海辺よりも 大好き 甘いチョコよりも こんなに大事なことはそうはないよ"
という歌詞の、ポップで可愛らしい不思議な曲が流れていました。僕はそのフレーズとメロディラインに一瞬で惚れ込んでしまって、誰が歌っているんだろう?でも当時はネットもないので調べようもありません。

夏になり横浜の河合塾に夏期講習で行くことになりました。普段は東北沢の河合塾に通っていたのですが夏期講習でたまたま取りたい先生の授業が横浜校で開催されていたからです。講習が終わって僕は横浜ビブレのCD屋さんに寄りました。そしたらあの"君が大好き"のフレーズが鳴っていました。ピンクのジャケットの3rdアルバム『靖幸』が出たばっかりだったのです。僕はすかさず購入。その曲のタイトルはまさに「だいすき」で、それを歌っているのは岡村靖幸というシンガーソングライターなのだと知ることになります。

これが僕と岡村ちゃんの出会いでした。横浜への行き帰りの東横線でCDウォークマンで聴く『靖幸』はどの曲もチャーミングで僕は瞬く間にとりこになり、そうすると早速さかのぼって聞きたくなるわけですよ、1stアルバム『yellow』と2ndアルバム『DATE』もすかさず購入。こうして『DATE』の1曲目の「19(Nineteen)」と、僕はまさに19歳で出会ったわけです。そしてアルバム最後の曲「19才の秘かな欲望」を19才で聞きながら、まだテレビマンになるなんて、それこそ自分で音楽フェスを開催するなんて思ってもみなかった19才のとき、いつか岡村さんと出会ってみたいと秘かな欲望を持ったのです。

翌年の1990年、大学に合格して僕は東京で一人暮らしを始めます。秋の学園祭の直前に出たものすごくファンキーでエッチでかっこいい4thアルバム『家庭教師』はもうめちゃくちゃ聞きまくりました。
"好みのギャルもビデオばかり見てたなら出会う機会も失せるぜ"と「どぉなっちゃってんだよ」で諭され、めちゃくちゃいやらしい「家庭教師」の歌詞にドキドキし、"六本木で会おうよ"にあこがれながら、ファミコンやってレンタルのビデオ見て「カルアミルク」を注文したりして、「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」に泣き、「ステップアップ↑」の一節、"僕はステップアップするため倫社と現国学びたい"をマジで信じて勉強してたと思います。

その後学生時代は岡村ちゃんを聞きまくり、1994年に卒業してTBSに入社。バラエティ制作に配属された僕は地獄のAD時代を迎えます。まさに生きがいなど何もないそんなAD2年目の1995年、岡村さんは4年ぶりに5thアルバム『禁じられた生きがい』を発表。僕はアルバムの最後の曲「チャームポイント」が大好きで、
"激しく健気な頃の夏を取り戻せ"
という歌詞が、その後の僕の人生のテーマになったのです。自分が失敗したり落ち込んだりした時、あの19才の頃の岡村さんと出会った、激しくて健気な頃の夏を取り戻そうと思うようになったのでした。

でもその後、寡作になっていく岡村さん。20世紀はアルバムの発売はついになく、でも「ハレンチ」、「セックス」、「真夜中のサイクリング」のシングルを聞いて僕はディレクター時代を過ごすことになります。当時『真夜中の◯◯』って番組企画書作ったりもしました(笑)。
そう岡村ちゃんファンであることとは、要するに"待つこと"なのです。

その後、僕は2006年にプロデューサーになり『明石家さんちゃんねる』を制作しますが、視聴率で苦戦してかなり凹んでた時期です。そんな苦しい最中の2007年に岡村さんは、突如シングル「はっきりもっと勇敢になって」を発表。僕は、たまらず11月にゼップ東京で行われたライブに足を運びました。そこで青いギターをかき鳴らしながら歌う「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」に、本当に本当に号泣しました。あんなギターかき鳴らされたら号泣するに決まってるじゃありませんか...。

2011年の3月11日に東日本大震災があり、悲しいことがたくさん起こりました。そんな中、夏フェス『SWEET LOVE SHOWER』の8月27日に岡村さんが突如復活するというのです。僕はチケットをゲットして、山中湖に向かいました。そこでメインステージのLakeside STAGEのトリに登場した岡村さんはキラキラにときめいていました。キレキレに踊る岡村さんは本当に本当にかっこよかった。僕はずーっと号泣しながら踊りながらステージを見ていたのを覚えています。なんか、がんばろうと思った。これからの人生、ただ僕もやりたいことをやりたいだけがんばろうと思ったのでした。

こうして2012年の1月に僕は『オトナの!』を独立採算で開始することになります。視聴率にしばられない独立採算の番組を作ること。いままでは視聴率を取るために番組を作ってきました。自分が会いたい人をテレビに出そうなんて、考えたこともなかったです。でも震災が起こって、僕は自分のやりたい番組を作ろうと思ったのです。手前味噌だけど、僕が見たい天才だけが出演するトーク番組を、いとうせいこうさんとユースケ・サンタマリアさんとやってみようと思ったのでした。そんな思いで番組をやることになってみて、僕はついにはじめて、岡村靖幸さんに自分の番組に出ていただこうと決心がつきました。いままではただの岡村ベイベだった。岡村さんのファンであればよかった。でも『オトナの!』をはじめたからには、岡村さんにどうしても出ていただきたかったのです。いや、むしろ岡村さんに出ていただきたくて『オトナの!』を始めたのかもしれません。19才の秘かな欲望は、ついに秘かではいられなくなったのです。

どうやったら出ていただけるのだろう?僕らはそんな時は通常マネジメントする会社へのツテを探します。調べてみると岡村さんのマネジメントは近藤さんというレコード業界の重鎮の方がやっていました。当然ツテなどありません。僕は10月12日にNHKホールで行われるライブのチケットを購入して参戦する予定だったので、一か八かそこにかけてみることにしました。
当日、そこで関係者入り口を探します。当然関係者ではないけど、入り口に近づいてみました。そうしたら近藤さんがいらっしゃった。僕は不躾ながらいきなり
「近藤さんですか?」と挨拶をしたのです。
「僕はTBSのプロデューサーなのですが、岡村さんが大好きで大好きで、なのでつい挨拶してしまいました」
近藤さんは「そうですか!ありがとうございます」とニコニコと丁寧に対応してくださいました。こうして名刺交換をさせていただき、2週間後に近藤さんにあらためて正式にお会いして、『オトナの!』への出演をオファーしたのです。

オファーを聞いた近藤さんは笑いながらちょっと困った顔をしました。
「トーク番組ですか?岡村は出ないですよ」
僕はすかさず答えます。
「ですよね。僕も見たことありません」
でも出演していただきたい!当然断られると思っていたけど、でも出ていただきたい。なので僕はこう言ったのです。
「待ちます!岡村さんが出演してくれるの、ずーっと待ってます!」
近藤さんは言いました。
「この番組はいつまで続きますか?5年後ぐらいならあるかもしれませんが...」
「では、5年続けます。岡村さんが出ていただけるまで、番組は終わらせません」

でも、今度は待ちませんでした。年が明けて2013年1月14日に近藤さんから電話がかかってきたのです。なぜ細かく日付まで覚えているかというと、以前この連載に書きましたが僕は毎月13日に箱根の九頭龍神社に参拝していて、そうすると必ず当日か翌日いいことがあるからなのです(拙著『成功の神はネガティブな狩人に降臨する』参照)。
近藤さんからの電話がまさに参拝翌日の14日に鳴ったので、僕はその時「もしや!?まさか!」と思ったのをいまでもはっきり覚えています。
近藤さんはこう言いました。
「水道橋博士と一緒なら出演の可能性あります」
博士...ありがとうございます!本当にありがとうございます。僕は水道橋博士とは数年前にネット番組をご一緒していたのです。その瞬間、星座が繋がったのでした。すぐさま博士に連絡をして、スケジュールを合わせて収録が決まりました。

2月12日に取材ではじめて岡村靖幸さんとお蕎麦屋さんでお話させていただきました。僕はその感動を忘れません。めちゃくちゃ緊張しましたけど、もう厚かましいついでにお願いしちゃいました。
「例えば、ギターを当日持ってきていただくことは可能ですか?」
「はい!いいですよ」
おおお!快諾してくださった岡村さん!!それって、当日何か演奏してくれちゃうかもしれないってことじゃないですか!!!

2月15日に下北沢にて収録。持ってきてくださったのは、あの青いギター。ライブステージで「あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう」の時、かき鳴らしていたあの青いギターです。僕が号泣したあの青いギターが目の前に!!
そしてせいこうさん・ユースケさん・水道橋博士と即興でやるセッション。曲のタイトルは即興で決まった「オトナの!」。岡村さんがギターをかき鳴らして歌い始めた即興セッション。
"何がオトナなのか 何がコドモなのか
 誰がオトナなのか 誰がコドモなのか
 給料貰えばオトナなのか
 コドモ育てたらオトナなのか
 ギャンブルやればオトナのか
 お酒を飲めればオトナなのか
 人の悪口言わなければオトナなのか
 セクシーなキスすればオトナなのか
 約束すればオトナなのか
 僕にはよくわからない"

徐々に参加するせいこう&ユースケ。すると岡村さんに急に
「博士歌って!」
と無茶振りされる水道橋博士。
「こんなことやったことない!」
とシャウトする博士。もう神がかり的な最高なオトナのセッションです。その模様は3月に3週にわたって放送されました。


そして今年2016年6月の『オトナの!』の終了が決まりました。ちょうど5年目でした。
最後の収録は、5月23日にゼップダイバーシティで開催される『オトナの!フェス2016』。
僕は番組終了が決まって、その報告に3月末に近藤さんを訪ねました。
そして、最後のわがままを近藤さんにぶつけました。
「最後のオトナの!フェスに、岡村さん出演していただけませんか?」
「え、いつですか?」
「5月23日です」
すかさずスケジュールを確認する近藤さん...
「えー、ツアーの真っ最中じゃないですか。前々日は大阪でライブで、その週末は中野サンプラザですよ!」
「はい、無理を承知でお願いにあがりました。『オトナの!』の最後に岡村さんに出ていただきたくて...」
すると近藤さんは、
「ちょっと時間ください。調整してみます」
と即答してくださったのです。全然待たせたりしませんでした。
そしてお話が終わって別れ際に、近藤さんは言いました。
「角田さんの最後のフェスですからね。でも、それもありますけど、高橋幸宏さん率いるMETAFIVEと岡村さんのツーマン。そんなかっこいい最高のライブ、きっとみんな観たいじゃないですか!!」

そして数日後、岡村靖幸さんの出演決定の連絡をいただきました。
さらに4月29日の岡村さんのゼップダイバーシティのライブ中に、『オトナの!フェス』出演をサプライズ発表してくださったのです。
これは僕の『オトナの!』最後の収録になります。最後が岡村靖幸さんとご一緒できて、こんな最高なテレビマン人生はありません。

『オトナの!フェス2016 METAFIVEと岡村靖幸』
このメルマ旬報の読者の方々ですから、きっと岡村靖幸さんのファンの方が多いでしょう!よく岡村さんのライブに行かれてる方も、まだ行ったこともない方も、そしてたまたまこの文章と出会って岡村靖幸さんに興味を持った方も、ぜひ来てください!
みなさん、5月23日お台場のゼップダイバーシティでは、きっと奇跡が起こります。
僕が19才の夏に出会った、あの岡村靖幸の衝撃を。
激しく健気な頃の夏を取り戻せ!


【関連リンク】
『オトナの!フェス OTO-NANO FES! 2016』
http://www.tbs.co.jp/otonano/event/

『水道橋博士のメルマ旬報』
https://bookstand.webdoku.jp/melma_box/page.php?k=s_hakase

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