キューブリックの映画を観てコンプラやポリコレについて考える。
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- マシュー・モディーン,リー・アーメイ,ビンセント・ドノフリオ,スタンリー・キューブリック
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巨匠、スタンリー・キューブリックが監督した『フルメタル・ジャケット』の冒頭は、海兵隊訓練キャンプの様子から始まる。教官であるハートマン軍曹に「微笑みデブ」とあだ名をつけられたデブのレナードは何をやってもダメのダメ男で、レナードが何かしでかすたびに連帯責任で同僚からも信頼を失う日々。最終的には、深夜、寝ている間に集団暴行に遭う。精神的におかしくなっていくレナードだったが、射撃の天才的才能を見出される。ハートマン軍曹にやっとお前の使い道を見出したと言われ、認められるも時すでに遅し。レナードはトイレでハートマン軍曹を射殺し、自らも自殺してしまう。
これだけのストーリーで映画の約半分である。デブが狂って死ぬだけで映画の半分。こんな映画キューブリックにしか撮れない。しかもキューブリックだから映像が美しいのも相まって観れてしまうのである。他にも、『時計仕掛けのオレンジ』では、不良たちが暴行やレイプなど悪行の限りを尽くすだけで1時間、でも映像が死ぬほど美しいので観れてしまう、『シャイニング』では、ジャック・ニコルソンが狂って暴れるのを映像が美しいので魅せてしまう。みごとに今ではコンプラに引っかかりそうな映画ばかりである。(『時計仕掛けのオレンジ』は当時でもコンプラに引っかかってイギリスで上映禁止になった)。時代が時代なら撮れていないだろうが、今でも名作。
キューブリックの映画はコンプラやポリコレの弊害を僕らに突きつける。
(文/神田桂一)