カントは何を「批判」したのか

ニュートンの登場によって自然科学は飛躍的に発展しました。その体系的な知を、人々は「客観的真理」として信奉し、多大な期待を寄せるようになります。そこに痛烈な一撃を加えたのがヒュームでした。彼は、科学の知は習慣的な思考の産物であって、客観的真理ではないと喝破(かっぱ)し、カントはこれに大きな衝撃を受けたと吐露しています。ヒュームによって打ち砕かれた自然科学の客観性と信頼性をあらためて立て直すことが『純粋理性批判』の中心課題のひとつです。カントは何を批判しようとしたのでしょうか。東京医科大学哲学教室教授の西 研(にし・けん)さんに伺いました。

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ヒュームによって、自然科学の客観性と信頼性は打ち砕かれました。それをあらためて立て直すことが『純粋理性批判』の中心課題のひとつです。カントは、科学の信頼性の根拠を解明することによって、科学のさらなる発展を支える土台を築きたいと考えました。
しかし、それだけなら『純粋理性批判』は決定的に重要な本にはならなかったでしょう。科学の知はたしかに重要ですが、人間の価値や生き方に関する問いには答えてくれません。「よく生きるには何が必要か」という問いに対してもきちんとした答えを提示することが、『純粋理性判』のもうひとつの中心課題です。
これら二つの課題を同時に解決する理論を構築しようとしたら、分厚く難解な本になるのも致し方ないことかもしれません。
それにしても、なんとも堅苦しい書名です。一見すると、何をテーマにした本なのかわかりませんが、このタイトルからもカントの狙いを読み取ることができます。初版(A版と呼ばれます)の序文から引用します。
わたしがここで考えている批判とは、書物や体系の批判ではなく、理性の能力全般についての批判である。いかなる経験ともかかわりなく、理性が獲得しようとしているすべての認識を、批判しようとするのである。この批判は、形而上学一般〔事物の存在、魂の存在、神の存在などを根本的に論じる学〕がそもそも可能なのか、それとも不可能なのか、形而上学の起源およびその範囲と境界はどのように規定されるかを、すべて原理に基づいて考察しようとする。(〔 〕内は引用者による補足)
ここでいう「批判」は、必ずしも否定や非難のニュアンスを含んでいるわけではありません。理性の能力とその限界を厳しく吟味(ぎんみ)することを指す言葉です。この本でカントは、人間が備える「純粋理性」のできること・できないことを吟味して明確にしようとしたわけです。
カントのいう「理性」とは、広義では、感覚を含む人間の認識能力一般を指します。狭義では、とくに物事を推理する能力を指します。
この狭義の理性は、さまざまな認識や判断をもとにその原因や前提条件を問うていきます。たとえば、引っ越してきたとき、自分の家の東のほうに歩いていくと、どんな風景が広がっているんだろう、住宅地が続くのかな、それとも畑が広がっているんだろうか、と推理する。この場合には、いくつかの情報に従ってそれなりに妥当な推理ができそうですし、実際に行って確かめることもできるでしょう。そのように理性を使っているかぎり、問題はない。
しかし理性には、どんどん推理を進めていく本性があります。地球の外はどうなっている? 太陽系の外は? 銀河系の外は? と次々に問うていくと、ついには、宇宙空間には果て(限界)があるのか? ということまで考えてしまう。理性は、科学が行っているように合理的な推理も行いますが、どんどん推理を積み重ねて「究極真理」を問うてしまう、そんな本性ももっているのです。
■『NHK100分 de 名著 カント 純粋理性批判』より

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カント『純粋理性批判』 2020年6月 (NHK100分de名著)
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