国家と「死」──ナショナリズムの誕生

17世紀前半にヨーロッパ全土を巻き込んだ三十年戦争。最初のヨーロッパ大戦ともいわれるこの戦乱を収拾するために開かれたウェストファリア講和会議において、「ウェストファリア条約」が締結されました。これにより確立した「ウェストファリア体制」の下で、主権国家が宣戦布告によって戦争を始め、第三国つまり非当事国が設定する「講和会議」によって戦争を終えるというルールができました。こうして、戦争は国家間のものとなり、国家のために死ぬことを美徳とする「ナショナリズム」が誕生したのです。哲学者の西谷修(にしたに・おさむ)さんが、その思想的背景をカイヨワの『戦争論』を引きながら解説します。

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19世紀以後、近代の「国民戦争」というものの枠組みが出来上がります。それはまず、ウェストファリア条約による国際法秩序の成立と、その下で戦争が主権国家の権限に結びつけられたことと関係しています。
それ以前のヨーロッパの戦争は、多くの場合、「神」によって正当化されてきました。神のための「聖戦」というわけです。ところがこの新しい体制のもとでは、「神」は戦争の口実にはならず、国際法のルールにさえ従えば国家は戦争をしてもよいことになります。つまり、戦争には善も悪もない。その意味では、戦争当事国はみな法的に同等になります。これを「無差別戦争観」といいます。主権国家には戦争をする権利があるのであって、良い戦争も悪い戦争もなく、規制されるのはやり方だけです。
それによって、戦争は「国家」と切り離せないものとなりました。その国家が国民を統合することになる。政治形態が王制であれ、共和制であれ、そこでは人びとの運命が、帰属する国家の命運に結びつけられるのです。国民の義務として戦争に駆り出されることがある一方、進んで国家のために尽くすという意識もつくられる。あるいは、国家のために死ぬことが美徳とされるようになる。それが「ナショナリズム」です。この場合のナショナリズムは、ある社会のひとつの風潮ということではなく、近代の「国民国家」が形成されるときに、国家と人民とを関係づけ、特徴づける意識傾向のことです。
「ナショナリズム」は死を媒介にしています。死の意味づけといってもいいでしょう。近代社会で一人ひとりバラバラになった個人は、「なぜ生きるのか」の指針を失い、現世的な欲望にかられて目先の利害にのめり込みがちですが、そこに国家が意味を与えてくれるというのです。「国家のために死ぬ」。すると「わたし」の死は多くの人に悼まれ、生きていたことにも意味があるというわけです。
カイヨワは国家の統制のほうを強調していますが、「国民国家」はこうした人びとの意識によっても支えられています。
クラウゼヴィッツと同時代の哲学者ヘーゲルは、人間世界の発展を「戦いの歴史」としてまとめ、それが近代の「国家」を生み出したとしました。そのヘーゲルは近代哲学の中では視野の外に置かれていた死を重視しました。死については考えられないが、その考えられないものにたじろがず直視して、死の持つ力を我がものにすることで精神が確立されるというのです。そしてその精神の現実態が国家のうちに実現される。すると国家は個々人の死を克服して実現された永遠として、不朽の実在となる。言い換えれば、戦いに倒れた人びとの死の上に壮麗な墓碑のようにして建立されるのです。
いささか抽象的ですが、ヘーゲル哲学の核心をこのように説明したのは、ロシアからの亡命哲学者アレクサンドル・コジェーヴで、カイヨワはその講義録をつくっていました。
西洋の伝統的な考え方と比較してみると、こんな風にもいえるでしょう。キリスト教は、ばらばらな個人を「愛」によって結びつけます。人びとは相互に結びつくのではなく、神への愛、神のわれわれに対する愛によって結びつくのです。そしてその愛はときとして、「死を超えた愛」となることで成就する。なかでも神秘家たちは、死に近似した恍惚境に入って、神との合一を果たします。そんなキリスト教の神あるいは「教会」の場所に、近代において「国家」が取って代わるわけです。ばらばらの個人を、今度は国家という全体性が結びつける。だから死を超えて、国家に身を捧げるのです。
カイヨワは、国家と戦争との関係を強調してヘーゲルを次のように引用しています。
ヘーゲルが戦争をよいもの不可欠のものと考えたのは、彼のいう理念の担い手である国家が、これによって強化されるためであった。戦争により、いかにして国家がその理想的統一に到達するかを、彼は示している。(略)(以下、ヘーゲル『精神現象学』よりカイヨワが引用)〈個人がこのような孤立のなかに根をおろし、そこで固まってしまわないようにするため、(略)政府はときどき戦争を行ない、内輪な交わりのなかに安住している個人を揺り動かさなければならない。政府は戦争をすることにより、日常的なものとなってしまっている彼らの秩序を混乱させ、その独立の権利を侵害しなければならぬ。このような秩序にひたりきって、全体からはなれ、自分だけのための絶対不可侵な生活を願い、自己の安住のみを求めるような個人に対しては、政府はすべからく、ここに課された労働のなかで、彼らの支配者である死というものが如何なるものか、思い知らせてやる必要がある。〉

(第二部・第一章)



「ふるさとの山川」や「父祖の地」を愛する傾向を「パトリオティズム」といいます。それに対して、より抽象的な理念である「国家」を愛することは「ナショナリズム」といい、前者とは異なるものです。しかし国家が宗教化し、自然を真似てそれと一体化すると、パトリオティズムはナショナリズムに統合されてしまいます。近代以降の日本などでは特にその傾向が強かったでしょう。ヨーロッパでいえば、例えば古代ギリシアの時代、攻めてきたペルシアの大軍から故郷の共同体を守るために、スパルタの勇者たちが献身的に戦い抜いて全滅したという、有名な「テルモピュライの戦い」(紀元前480年)がありますが、これはパトリオティズムです。しかし、近代の国家は抽象的な理念による構築物ですから、ナショナリズムはそのような自然な心情とは異なって、身近な家族や友人ではなく、見ず知らずの「国民」や自分の帰属する「国家」への献身を求めます。
かつては教会が「キリストの身体」とされ、人びとの「愛」つまり信仰がその身体を生かすと考えられました。「国家」は、国家のために死ぬ、あるいはそうみなされる人びとの犠牲によって、その活力と凝集力を得るのです。「この人たちが国のために死んだ。おまえも国のために死ね」という形で、国家は自らを強化していく。そのことをわたしは「死の貯金箱」と呼びます。国家のために死んだ人間が多くなるほど、国家の力は強くなっていくのです。
■『NHK100分de名著 ロジェ・カイヨワ 戦争論』より

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