悲しみは「思いやり」の源泉になる

神谷恵美子は著書『生きがいについて』の中で、人の死についてこう綴っています。
周囲のひとが死病にかかったり、死んだりしても、よほど身近かなひとでもないかぎり、軽くやりすごしてしまう。そうでなければ、人間の精神は一々ゆさぶられて耐えられないからでもあろう。葬式のあとまたは通夜の席上、ひとびとが思いのほか愉快そうに飲み食いし、歓談する光景はそうめずらしいものではない。あれも精神の平衡をとり戻そうとする自然現象であろう。そのなかで、故人の存在にすべてを賭けていた者は、心の一ばん深いところに死の傷手(いたで)を負い、ひとりひそかにうめきつづける。
批評家・随筆家の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんは、前半で語られているのが「社会的な死」、後半を「私の死」と位置づけます。
先の一節で神谷は「うめき」という表現を使っています。他者に見えず、聞こえないのが「うめき」です。それが「私の死」のときにほとばしりでる、声にならない、悲しみの「声」です。
神谷自身も、初恋の人を結核で亡くすという「私の死」を経験しましたが、生きがいを失うほどの悲しみは、そこにあたたかさがあれば他人への思いやりを生む源泉になるのではないかと考えました。その思考を、若松さんが読み解きます。

* * *

愛する者を喪う、罪を犯すといった「生きがい」が損なわれる経験は、悲しみと苦しみを伴います。この本でで神谷は苦しみと悲しみを一体として語ることもありますが、悲しみと苦しみは異なる層をなすときもある、と述べています。
ある時期までは苦しみも悲しみも判別できない。しかし、苦しみが人をしばしば自分のなかに閉じ込めるのに対し、悲しみはいつしか他者に開かれていくようになる。悲しみはいつか他者の苦しみ、悲しみの音を映しとる「心の弦」になる、というのです。
ひとたび生きがいをうしなうほどの悲しみを経たひとの心には、消えがたい刻印がきざみつけられている。それはふだんは意識にのぼらないかもしれないが、他人の悲しみや苦しみにもすぐ共鳴して鳴り出す弦のような作用を持つのではなかろうか。〔中略〕しかしもしそこにあたたかさがあれば、ここから他人への思いやりがうまれうるのではなかろうか。
「心の琴線(きんせん)」という言葉があります。悲しみを生きている人は、実は人と共振する心の弦を持っている。そして、悲しみを経験して手にしたその弦から、他者への共感が生まれる。悲しみは、「思いやり」の源泉になると神谷はいうのです。
苦しみのなかに、悲しみの光が射してきたとき、他者を招き入れる余白が私たちの心に生まれます。悲しみを通じて他者とつながるという道が、そこに開かれるのです。
『生きがいについて』と並んで、多くの人に読まれた神谷の著作に『こころの旅』があります。そこで神谷は、ブッシュ孝子という女性の詩を引いています。この詩は、悲しみの奥にあるものを、じつによく、また切なる言葉によって表現してくれています。
暗やみの中で一人枕をぬらす夜は
息をひそめて
私をよぶ無数の声に耳をすまそう
地の果てから 空の彼方から
遠い過去から ほのかな未来から
夜の闇にこだまする無言のさけび
あれはみんなお前の仲間達
暗やみを一人さまよう者達の声
沈黙に一人耐える者達の声
声も出さずに涙する者達の声 

(ブッシュ孝子『白い木馬』神谷美恵子『こころの旅』所収)



ブッシュ孝子は、世にいう詩人ではありません。がんを患い、その闘病中にドイツ人男性と結婚し、28歳の若さで亡くなった女性です。この詩は、愛する人と幸せな結婚生活を送るはずだったのに、病によって死に別れなければならない。そういう状況で書かれた詩です。
悲しみに暮れる彼女の耳には、どこからともなく、他者の悲しみが訪れる。近くだけでなく、遥か遠い場所からも、そればかりか過去や未来からもやってくる。「夜の闇にこだまする無言のさけび」、これが先にふれた「うめき」(テキストP87)です。
彼女は、この無音の声を発する者たちを「仲間たち」であるといいます。仲間たちは、光を見失い、手探りで世界を生きている。また、沈黙と孤独を味わい、声も出さないで涙している。
「声も出さずに涙する」、世に隠れた人々の存在を、また、隠れたところで悲しむ彼女が受け止めている。こうした交わりが、私たちに「ほんとうの幸福」、真の叡知をもたらしてくれているのかもしれません。
神谷が彼女の詩を引用したのは、とても強く心を打たれたからだったのでしょうが、それは同時に、彼女自身もまた、どこからともなくやってくる「夜の闇にこだまする無言のさけび」を聞いたことのある者だったからなのではないでしょうか。
■『NHK100分de名著 神谷美恵子 生きがいについて』より

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