バイト先で親に見せぬ笑顔–「子のひとり立ち」を詠む

出会いや別れといった人生の様々な節目で読んでほしい短歌を、「塔」選者の永田和宏(ながた・かずひろ)さんが紹介します。1月号のテーマは「子のひとり立ち」です。

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息子がたしか二十歳の大学生の頃、突然、「俺、家を出てアパート借りる」と宣言し、身のまわりのものを纏(まと)めてさっさと家を出てしまいました。なぜ出るのかは尋ねませんでしたが、私も妻の河野裕子も、まったく反対はせず、逆にちょっとうれしい気分。そうか、いよいよ出ていくのか。
しばらくして、河野と息子のアパートに様子を見に行ったことがありました。ドアを開けて出てきたのは、初めて見る若い女性。それが今の連れ合いですが、その時はさすがに両方で驚きました。どちらもなんともバツが悪く、ほうほうの体(てい)で帰ってきましたが、帰り道で河野と盛り上がったことは言うまでもありません。うーん、奴め、なかなかやるなあ、敵ながらアッパレと、二人ともとてもうれしかった。父親(私ですが)や家族からのひとり立ちという目的のほかに、もっと現実的な必要もあっての、独立なのでした。
バイト先でピザ焼く吾子をのぞき見つあいつあんなふうに笑うんだなあ

垣野俊一郎 2017年度「河野裕子賞」


本年度の「河野裕子短歌賞」で「河野裕子賞 家族の歌・愛の歌」を受賞した作品ですが、ピザ店でアルバイトをしている息子の働きぶりをそっと見に行ったのでしょうか。そこでは息子がいきいきとした表情で、ピザなどを焼いている。家ではぶっきらぼうでほとんど笑った顔を見たこともないのかもしれません。下句「あいつあんなふうに笑うんだなあ」に、親としての実感がこもっています。親には見せたこともない、いい笑顔だったのでしょう。多少の悔しさもこめて、「あいつあんなふうに」と呟(つぶや)いたのに違いありません。
自分たちの知らない世界で、着実に社会人へと踏み出しつつある息子の存在感をしっかり確認したのでしょう。
■『NHK短歌』2018年1月号より

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