世界文学としての『ソラリス』
SF小説の傑作『ソラリス』は、なぜ世界中に読者を持ち、いまなお読まれ続けているのでしょうか。この作品が持つ強靱な力について、同書の訳者でもある東京大学教授の沼野充義さんに聞きました。
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『ソラリス』という小説は、ポーランドという<辺境>の国で、ポーランド語というマイナー言語で書かれたものですが、一国一言語の枠を越えて、翻訳を通して多くの人に読まれ、受容され、国際的に大きな影響を与えてきた作品です。なぜ『ソラリス』はそのような力を持つことができたのか。最後に、世界文学とは何かという観点も交えながら、『ソラリス』という小説の広がりについて考えてみたいと思います。
『ソラリス』が世界で広く受容された理由の一つに、SFというジャンルの特性がまず挙げられるでしょう。世界の小説の中には、たとえばある国の固有の歴史に題材を取り、その国の人には非常に愛読されているものの、翻訳されて外国の読者にも人気を博すかというとそうではない、という小説があります。日本でいうと、司馬遼太郎や山岡荘八などの歴史小説がそれにあたるでしょう。レムの出身国ポーランドでいうと、ローマ帝国を舞台に初期キリスト教徒の苦難を描いた『クォ・ヴァディス』という小説が世界的ベストセラーとなったへンリク・シェンキェヴィチという作家がいます。彼はポーランドで最初にノーベル文学賞を受賞した作家ですが、ポーランド国内でもっとも広く読まれている彼の作品は、十七世紀ポーランドの戦乱の時代を描いた歴史三部作です。しかしこの三部作は外国語訳はほとんどなく、日本語訳もいまだに出ていません。『クォ・ヴァディス』はローマを舞台にしたキリスト教徒の受難という普遍的なテーマを扱ったので世界的に読まれたのですが、ポーランド史を扱った小説のほうは国外で読まれることはほとんどなかった。このように歴史小説という分野の作品には、もちろん常にではありませんが、外国の読者には理解されにくいという側面があります。
それに対して、SFというジャンルは興味のない人はまったく手に取らないという意味で読者を選んでしまう恐れはあるのですが、描かれている未来の社会や、科学(認識)の問題、人間存在の問題などは、その国の人でないと理解や共感ができないというわけではありません。それらは国を問わず広く人々の関心を惹きつけます。ですから翻訳されても、作品の普遍性や魅力が失われにくいのです。
またもう一つの理由として、小さな国の文学だからこそ強靱な力がある、ということを強調しておきたいと思います。第1回で紹介したように、レムの出自は東欧の国境地帯で、そこは複数の言語と民族が複雑に入り組んでいる場所でした。そうした多言語的・多民族的な背景の中で、レムはいかなる強権的イデオロギーも信じない、強靱な懐疑的相対主義を鍛えて育ってきた人です。ポーランドとポーランド語は、小さな国でありマイナー言語ではあるのですが、逆にそのようなところで鍛えられた知性や想像力こそが、国境を越える大きな力を持つことがあるのです。
同じように、小さな場所で大きな力を得た作家にカフカがいます。カフカがいたチェコのプラハも、複数の民族のアイデンティティや言語が交錯した場所です。そうした場所で書いていたカフカはいま、二十世紀世界文学を代表する作家の一人として、圧倒的な影響力を誇っています。狭いところに閉じ込められているように見えて、そこで作り出したものは実は境界を自由に越える力を獲得している。そうした特徴はカフカの文学にもレムの文学にもあるものです。
また場所と文学の関係で言えば、特に二十世紀以降は、大きな場所を描けば大きな文学になるというわけではない、ということが明らかになってきています。たとえばアメリカのフォークナーはヨクナパトーファという南部の架空のコミュニティを中心にサーガを繰り広げていますし、ガルシア=マルケスはコロンビアの架空の小さな町を、日本の大江健三郎は四国の森を、中上健次は紀州の路地を舞台に小説を書き、その作品は国境を越えて多くの人々に読まれています。小さな場所に徹することで、かえって普遍性を獲得し、世界文学となりえたのです。
レムの場合、東欧の町を舞台にしてリアリズム小説を書いたわけではないので、その意味では「場所性」が見えにくいということはあるでしょう。しかし、そうした小さな場所で鍛えられた知性と想像力が、確実に作品に作用しているように思います。彼の一貫した相対主義、プロパガンダ的言説になびかない強靱な知性が、その作品世界を支えているのです。これに加えて『ソラリス』には、スリリングなエンタテイメント性があり、人間同士ではむしろ成り立ちにくいと思わせるほど人間味のあるラヴストーリーも展開されている。やはりこの作品は、レムの膨大な著作の中でもこれ以上のものはない、傑作です。
■『NHK100分de名著 スタニスワフ・レム ソラリス』より
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『ソラリス』という小説は、ポーランドという<辺境>の国で、ポーランド語というマイナー言語で書かれたものですが、一国一言語の枠を越えて、翻訳を通して多くの人に読まれ、受容され、国際的に大きな影響を与えてきた作品です。なぜ『ソラリス』はそのような力を持つことができたのか。最後に、世界文学とは何かという観点も交えながら、『ソラリス』という小説の広がりについて考えてみたいと思います。
『ソラリス』が世界で広く受容された理由の一つに、SFというジャンルの特性がまず挙げられるでしょう。世界の小説の中には、たとえばある国の固有の歴史に題材を取り、その国の人には非常に愛読されているものの、翻訳されて外国の読者にも人気を博すかというとそうではない、という小説があります。日本でいうと、司馬遼太郎や山岡荘八などの歴史小説がそれにあたるでしょう。レムの出身国ポーランドでいうと、ローマ帝国を舞台に初期キリスト教徒の苦難を描いた『クォ・ヴァディス』という小説が世界的ベストセラーとなったへンリク・シェンキェヴィチという作家がいます。彼はポーランドで最初にノーベル文学賞を受賞した作家ですが、ポーランド国内でもっとも広く読まれている彼の作品は、十七世紀ポーランドの戦乱の時代を描いた歴史三部作です。しかしこの三部作は外国語訳はほとんどなく、日本語訳もいまだに出ていません。『クォ・ヴァディス』はローマを舞台にしたキリスト教徒の受難という普遍的なテーマを扱ったので世界的に読まれたのですが、ポーランド史を扱った小説のほうは国外で読まれることはほとんどなかった。このように歴史小説という分野の作品には、もちろん常にではありませんが、外国の読者には理解されにくいという側面があります。
それに対して、SFというジャンルは興味のない人はまったく手に取らないという意味で読者を選んでしまう恐れはあるのですが、描かれている未来の社会や、科学(認識)の問題、人間存在の問題などは、その国の人でないと理解や共感ができないというわけではありません。それらは国を問わず広く人々の関心を惹きつけます。ですから翻訳されても、作品の普遍性や魅力が失われにくいのです。
またもう一つの理由として、小さな国の文学だからこそ強靱な力がある、ということを強調しておきたいと思います。第1回で紹介したように、レムの出自は東欧の国境地帯で、そこは複数の言語と民族が複雑に入り組んでいる場所でした。そうした多言語的・多民族的な背景の中で、レムはいかなる強権的イデオロギーも信じない、強靱な懐疑的相対主義を鍛えて育ってきた人です。ポーランドとポーランド語は、小さな国でありマイナー言語ではあるのですが、逆にそのようなところで鍛えられた知性や想像力こそが、国境を越える大きな力を持つことがあるのです。
同じように、小さな場所で大きな力を得た作家にカフカがいます。カフカがいたチェコのプラハも、複数の民族のアイデンティティや言語が交錯した場所です。そうした場所で書いていたカフカはいま、二十世紀世界文学を代表する作家の一人として、圧倒的な影響力を誇っています。狭いところに閉じ込められているように見えて、そこで作り出したものは実は境界を自由に越える力を獲得している。そうした特徴はカフカの文学にもレムの文学にもあるものです。
また場所と文学の関係で言えば、特に二十世紀以降は、大きな場所を描けば大きな文学になるというわけではない、ということが明らかになってきています。たとえばアメリカのフォークナーはヨクナパトーファという南部の架空のコミュニティを中心にサーガを繰り広げていますし、ガルシア=マルケスはコロンビアの架空の小さな町を、日本の大江健三郎は四国の森を、中上健次は紀州の路地を舞台に小説を書き、その作品は国境を越えて多くの人々に読まれています。小さな場所に徹することで、かえって普遍性を獲得し、世界文学となりえたのです。
レムの場合、東欧の町を舞台にしてリアリズム小説を書いたわけではないので、その意味では「場所性」が見えにくいということはあるでしょう。しかし、そうした小さな場所で鍛えられた知性と想像力が、確実に作品に作用しているように思います。彼の一貫した相対主義、プロパガンダ的言説になびかない強靱な知性が、その作品世界を支えているのです。これに加えて『ソラリス』には、スリリングなエンタテイメント性があり、人間同士ではむしろ成り立ちにくいと思わせるほど人間味のあるラヴストーリーも展開されている。やはりこの作品は、レムの膨大な著作の中でもこれ以上のものはない、傑作です。
■『NHK100分de名著 スタニスワフ・レム ソラリス』より
- 『スタニスワフ・レム『ソラリス』 2017年12月 (100分 de 名著)』
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