第10回 「因果」という悲劇の中の北野武 『アウトレイジ ビヨンド』
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北野武のフィルムはつねにはかない。
暴力を主題にしながらも、観たものにはかなさを感じさせます。それは空しさや倦怠とは違う、もっと強度のあるはかなさです。西洋のギャング映画とは、まったく種類を異にする、日本的な情感を生み出しています。たとえば、「仁義」について考えてみます。本作の主人公・大友も、「義理」や「人情」を大切にする古いタイプのヤクザだし、そのために彼は、とても不条理な人間の欲望たちに飲み込まれていきます。
でも、大友は「義理」や「人情」を大事にしながらも、どういうわけか、それらをどこかで信じていないのは明らかです。ここに現代のヤクザ、いえ、現代人の深い孤独感を感じざるを得ません。そういう意味では、本作は、任侠映画とは遠く離れています。
生まれ落ちてから今日まで、人はさまざまな善も悪を行い続けています。これらはすべてカルマ(業)として、自分の内部に蓄えられると仏教では考えます。
いま、もし、あなたが人に憎まれているとすれば、あなたがかつて人を憎んできたからです。もし、暴力をふるわれるなら、もしかしたら、あなたが言葉や行動によって、他人に暴力をふるっていたのかもしれません。
主人公・大友もそういう意味では、決してヒーローではありません。自分が冒した罪、自分の弱さや見栄や自尊心が、「因果」となって、本人の悲劇を生み出しています。
大友の振る舞いは、北野武という存在と完全に分離して観ることは不可能です。北野自身の「因果」は知るよしもありませんが、フィルムににじみ出てくるのは、北野自身の悲しみや孤独の「因果」に他なりません。
北野は任侠映画をまったく違う視点から撮りおろしました。そこにあるのは、明らかな「無常観」です。狂い続ける社会を冷めた俯瞰の目で見つめる、北野の制作手法が、観るものを身も凍るような「はかなさ」へと誘い出すのです。
この映画を単なるヤクザ映画として、漠然と観るのではなく、これまでの作品群と並べて、彼の世界観を存分に味わっていただきたいと思うのです。