釈迦の十大弟子が断った維摩の見舞い——得意分野をことごとく否定した真意

維摩が病気であることを知った釈迦は、自分の代わりに弟子を維摩のもとに見舞いに向かわせようと考えて、弟子たちの中でナンバーワンの頭脳を誇り「智慧第一」とも称された舎利弗(しゃりほつ)に声をかけました。
「維摩さんのお見舞いに行ってきてくれませんか」
尊敬する釈迦の頼みなのだから二つ返事で引き受けてもよさそうですが、舎利弗は渋りながらこう答えました。
「世尊(せそん)、それはご勘弁願います。とても私にはその役目を果たせるとは思えません」
なぜ舎利弗が見舞いの代役を拒んだかというと、以前、維摩にやり込められたことがあったからです。
維摩が釈迦の高弟たちを論破した言葉の中には、仏教の真理がしっかり示されていたと如来寺住職・相愛大学教授の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんは指摘します。

* * *

あるとき、舎利弗が林の中で静かに瞑想していたところ、維摩がやってきてこう言ったそうです。
「舎利弗さま。必ずしも坐ることだけが坐禅ではありません。坐禅というものは俗世間の中にあって、身と意(こころ)を現さないことなのです。何もせず、心の働きを止め、しかも諸々の俗世間の行いをするのです。修行を捨てず、俗事をする。これが坐禅です。心は自らに向くものでも、外に向くものでもありません。これが坐禅です。世間の種々の見方、考え方を知りながら仏道を修行する。これが坐禅です。煩悩は起こるにまかせ、しかも心が平静である。これが坐禅です。もしこのような坐禅ができたならば、仏もお喜びになるはずです」
この言葉を聞いた舎利弗は、どういうことなのか理解できず、呆然とするばかりでした。だから「維摩のところに自分が行ったところで当意即妙のやりとりができるとは思えない」と思ったのです。
舎利弗に断られた釈迦は、次に目連(もくれん)に見舞い役を頼みます。目連は舎利弗と並ぶ釈迦の二大弟子の一人で、「神通(じんずう)第一」と称されるほどの能力の持ち主です。しかし、目連も断ってきました。なぜなら以前、街角で在家者に仏法を説いていたときに、維摩にこんなことを言われたことがあったからです。
「目連さま。在家に教えを説く際に、あなたのように“聖者の道(出家者の道)”をお話しするのは間違ってはいませんか。説法とは、ありのままの姿(法)を説かねばなりません。ありのままの姿とは、『すべては変化し続ける、不変の実体はない、すべては関係性の中で成立している、すべての存在は集合体である』ということであり、その立場に立つことこそが仏教なのです。
なぜ仏教はこのような立場に立つのでしょうか。それは執着から離れるためです。自分というものに不滅の実体がないだけでなく、すべての存在には不滅の実体がないということを体得すれば、虚構にすがることなく自分の役割を実行して生き抜き、死にきることができるのです。これを『空(くう)』と言います。だからといって『空』をリアルに実感・体得できるわけではありません。なぜなら言葉にしてしまった時点で、すでに“ありのままの姿”を歪めてしまうことになるからです。だから、ありのままの姿を説くことができないということを、あなたはしっかりと理解したうえで説法しなくてはなりません」
この話を目連とともに聞いていた聴衆は感激し、全員が仏道を歩く心を起こすことになったそうです。聴衆が感動するのも無理はありません。なぜなら維摩が目連に語った言葉の中には、仏教の真理ともいうべきものがしっかり示されていたからです。
仏教では「生きることは苦である」と考えます。この場合の「苦」の原義は、「思い通りにならない」といった意です。人生のすべてを思い通りにできる人はいません。だから、「思い」のほうをなんとかしなければならないのです。ここでは“ありのままの姿”という言葉を使っていますが、“ありのままの姿”とは、「こうすべき」とか「こうありたい」といった自分の「思い、執着」を捨てた状態のことです。維摩はそれこそが仏教が理想とする到達点だと言っているのです。
ただ、この考え方を推し進めていくと、仏教自体を否定することになってしまいます。すべてのことに執着しないのが理想なら、仏教の価値体系や意味にさえ執着すべきではないということになってしまうからです。仏教をどんどん突き詰めていくと、結局はそこに到達せざるをえません。そうしたこともすべてわかったうえで、維摩は「執着を捨てる」ことを語ります。

■得意分野をことごとく否定

最も信頼していた二人の弟子に断られた釈迦は、今度は大迦葉(だいかしょう)に見舞い役を頼みます。大迦葉は清貧生活にとことんこだわり、「頭陀(ずだ)第一」と呼ばれた人物です。しかし、大迦葉も断ります。その理由は以前、乞食行をしていたときに、維摩にこんなことを言われたことがあったからです。
「大迦葉さま。あなたは慈悲の心をおもちのようだ。しかし、富豪を避けて貧乏な人にばかり施しを乞うているようですね。そこには“生活が困窮している人こそ功徳が積めるように”という意識と、“贅沢なものを施されることがないように”という思いがあるのはわかりますが、すでにそこに“こだわり“が生じていることに気づかねばなりません。乞食行というものは平等の世界に立脚し、すべて自然のままに実践すべきなのです。
また、乞食行はあなたの食欲を満たすために行うものではありません。食べないために食物を受け取るのです。受け取らないために受け取るのです。誰かに施しをもらうために、誰もいない村へ行くのです。見えるものを見ず、聞こえる声はこだま、香りは風、食物の味に区別はありません。智慧によってものごとに接触し、すべての現象は幻だと知ることが大切なのです」
さて、ここまでのやりとりを読んで気づかれた方もいると思いますが、維摩はそれぞれの弟子が一番得意としているものをことごとく否定しています。舎利弗に対しては智慧、目連に対しては能力、大迦葉に対しては乞食行のあり方を問い詰めています。ここが『維摩経』の面白いところです。多くの経典では、舎利弗の智慧に感嘆し、目連が神通力を駆使して活躍し、大迦葉の修行態度を褒(ほ)めたたえているのですが、この経典では批判されるポイントになっているのですから。
人は「自分が正しい」「自分が優れている」といった自信を持ったとき、見えなくなるものがあります。自分が秀(ひい)でていると感じている領域にこそ落とし穴があるのです。維摩はそこを突いたわけです。
得意分野を持ち、ましてやそれを人から高く評価されると、人はどうしても「自分の考え方、やり方こそ正しいのだ」と思い込み、自分の作った枠組みを堅固にします。維摩は釈迦の高弟たちに揺さぶりをかけ、自らの仏道を再構築するように導いたのですね。
■『NHK100分de名著 維摩経』より

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