「方便」を使って教えを説く維摩

在家者として深く仏道を極め、悟りをも得ていた維摩。大乗仏教の教典『維摩経』に、その維摩が登場するのは第二章からです。出家者ではないものの、人の気持ちを理解し、その人柄はまるで海のように大らかで、欲望に溺れることなく、出家者同様に戒律を守りながら暮らしていたなどというように、維摩の美徳がまず冒頭で次々と紹介されます。中でも維摩の一番の特性として強調されているのが「さまざまな手だてをもって、人々を導く能力に長(た)けていた」という点です。如来寺住職・相愛大学教授の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんに、維摩の教えの説き方についてお話を伺いました。

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維摩のプロフィールが紹介された後は「現在、維摩は病いに罹(かか)って療養中で、維摩のもとには国王や大臣から一般の見舞い客まで数千人の人が訪れている」という話が続きます。維摩は見舞いに訪れた人々に向かってこう語ったそうです。
「みなさん、この私を見てどう感じますか。この身体は無常で、無力で、確かなものではありません。刻々と衰えていき、頼りにはなりません。しかし、仏教の教えによって智慧を得た者は、このような身体を頼りにすることはありません。
私たちは“自分というもの”を頼りにしてしまうと、貪(むさぼ)りの心や迷いを生み出してしまいます。そもそも私たちの身体は四つの元素(地・水・火・風)の集合体として成り立っていて、さまざまな因縁によって、たまたま成立しているだけなのです。やがては構成要素は朽ちていき、ばらばらに分離してしまいます。“単独で成立し、決して変化せず、何者にも関係していない存在”など、この世にはないのです。そして、この集合したものの本質を『空』と表現します。しかし仏となれば、もはや永遠の存在となるのですから、私たちはそれを願い求めなければなりません」
ここで維摩は、病気に苦しむ姿を見せながら、仏教ならではの世界観を説いています。仏教では、すべてのものは要素が集まった集合体に過ぎず、姿も本質も常に変化していて一瞬といえども同じ状態としてとどまってはおらず、さらには自分というものも実体はないと考えます。仏教の基本的立場を表す言葉に「諸行無常(しょぎょうむじょう/すべての現象は刻々と変化し続ける)」、「諸法無我(しょほうむが/あらゆる存在において、不滅で不変の実体はない)」というものがありますが、維摩はここでそれと同じことを言っています。
自分という存在も一時的なものであり、いくつかの要素の集合体であると自覚して、自分というものに執着しなければ、苦悩は解体できる。そのように説かれているわけです。

■方便を巧みに使って教えを説く維摩

ところで、ここでは「維摩の病気は方便である」といった話が出てきます。つまり仮病? いやいや、読み進めていくと、やはり本当に病気であるような記述もあります。どういうことなのでしょうか。とてもトリッキーな経典ですね。いよいよ『維摩経』が本領を発揮し始めたというところです。
維摩の病気うんぬんについては、この後、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)との対話において少しずつ明らかになっていきます。ここで言う方便について少し説明しましょう。方便という言葉は「自分の目的を達成するためには、ときには嘘をついてもいい」というニュアンスで使われる場合が多いようですが、もともとの意味は「真実へと近づくための中間地点」です。たとえばマラソンで走り続けるのが辛くなったときに、「ゴールはまだまだ遠いけれど、とりあえずはあの角まで行こう」といった感じです。そこに到達できたら、今度は次の角までがんばろうと考える──こうすることで、ゴールへ徐々に近づいていくことになります。仏教で教えを説く際にも、方便はよく使われます。いきなり深い話をしても理解してもらえそうもないときに「まずはここまできたらこんな光景が見えますよ」という話をしながら、徐々に本題を理解してもらう方向へと人を導いていくのです。つまり、維摩の病気は、人々を導くためのものである性格を有しているというわけです。
維摩の病気は方便でもあったのですが、私は実際に病気でもあったと思います。というのも、仏教では、老いや病いに苦しんでいる姿を人に見せることも、説法のひとつととらえることがあるからです。釈迦が涅槃(ねはん)に入るまでの最後の旅の様子を描いた『涅槃経(ねはんぎょう)』を読むと、釈迦も自分の臨終の様子を人々に見せています。下血したり嘔吐(おうと)したり、「苦しいから水を持って来てくれ」と弟子に頼んだり、老いや病いに苦しむ姿をわざわざみんなに見せているのです。
そして、自らの臨終を人々に見せるという行為は、釈迦にとっては最後の説法の意味を持っていました。仏典には、「人々は老いや病いや死をなるべく見ないようにしているが、誰もが避けては通れない道なのだから、ちゃんと苦しみと向き合い、それを引き受けなければならない」といった言葉もあります。維摩も、釈迦同様に、実際に老病死に苦しみもだえている自分の姿を人々に見せることで、老いや病いは避けて通れないものであるということを説こうとしたのでしょう。
維摩の病いが方便なのか事実なのかはともかくとして、維摩が見舞い客に教えを説いたくだりを読むと、維摩が「さまざまな手だてをもって、人々を導く能力に長けていた」人物だったことがよくわかります。
■『NHK100分de名著 維摩経』より

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