『苦海浄土』とは何か──水俣病患者たちの声なき声
1969年に出版された『苦海浄土』は、翌70年の第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれるも、石牟礼道子(いしむれ・みちこ)は受賞を辞退しました。その理由は公表されていませんが、大きく二つあるのではないか、と批評家の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんは考えます。
* * *
一つは、この作品がいわゆる「ノンフィクション」ではないこと、そしてもうひとつは、自分はこの作品の真の作者ではない、と彼女が感じていたところにあるように思われます。
近代文学では通常、作者がいて作品がある、作品は作者に属するものである、と考えられます。社会的にはもちろんその通りなのですが、『苦海浄土』をめぐっては、本質的にはそれとは異なる意味があります。少なくとも石牟礼にはそう感じられていたように思われます。『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女は様々なところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています。
ノンフィクションでなければフィクションなのか、ということになりがちですが、私たちは、そもそも文学を、ノンフィクション、フィクションで二分しなくてはならないのでしょうか。
作家の遠藤周作が新約聖書にふれ、この書物は、文学としても、もっとも優れた作品であるといい、そこには事実だけではなく、その奥に秘められた真実も描かれていることを読者は忘れてはならないと語っていましたが、同じことは『苦海浄土』にもいえると思います。
この作品の成り立ちをめぐって彼女と話をしたことがあります。そのとき、彼女は、現代詩の枠組みを超えた新しい「詩」のつもりで書いた、と語っていました。
『苦海浄土』は、詩である、と聞くと何か違和感を覚えるかもしれません。ただ、ここでいう「詩」とは、単に文学の一形式としての「詩作品」であるだけでなく、文学の根源的な精神を表象する「詩情」の結晶である、と考えることができるのではないでしょうか。また、詩には決まった形式は存在しないということも、ここでもう一度思い出したいと思います。
ともあれ、『苦海浄土』という作品が、既存のどのジャンルにも当てはまらない、まったく新しい文学の姿と可能性を伴って現れた、20世紀日本文学を代表する作品であり続けていることは、すでに動かせない事実となっています。
『苦海浄土』の第一部は、全七章からなる作品ですが、第一章から順に書かれたのではありません。第三章の「ゆき女(じょ)きき書」に当たる部分から誕生しました。それを核にして、あたかも何者かによって光が放たれるように作品世界が広がっていきます。
現在、第三部までは公刊されていますが、第一部に続いたのは第三部『天の魚』(1974年)でした。そして第二部『神々の村』(2004年)が書かれたのです。今もその営みは続いています。
9月の『100分de名著』では、そのなかでも特に第一部に軸足をおいてこの作品を読んでみたいと思います。この第一部は作家石牟礼道子の原点であり、それを読むことはおそらく現代日本文学の大きな岐路を目撃することになるからです。
時間は過去から未来へと進んでいく、私たちはそう信じて疑いません。しかし、この作品には、過ぎ行く時間とは別の永遠につながる「時」が描かれています。ある文章で石牟礼は、水俣病で亡くなった人は「未来へゆくあてもないままに、おそらく前世にむけて戻ろうとするのではあるまいか」(『わが死民――水俣病闘争』)とすら述べています。
計測可能な時間のなかで、すべてのことは過ぎ去ってしまうのか。けっして過ぎ去ることのない永遠に連なることが、この世にはあるのではないか。生命は滅びる。しかし、万物の「いのち」はけっして朽ちることがないのではないか、と彼女は全編を通じて読者に問いかけてきます。
『苦海浄土』を書いているとき、どんな心境でしたかと彼女に尋ねたことがあります。しばらく沈黙してから彼女は「荘厳(しょうごん)されているように感じました」と答えました。
「荘厳」とは、もともとは仏教の言葉で、仏の光によって深く照らしだされることを意味します。また、荘厳という言葉には人間の感覚を超えた響き、香り、輝きが広がり、また何ものかに包み込まれるような語感があります。真の意味における浄福と考えてもよいかもしれません。しかし、石牟礼が用いる場合には、特定の宗教的背景はありません。彼女が書くと、その底には留まらない広がりと深まり、さらには深い悲しみがあることに気づかされます。
荘厳の光は、苛烈な、ときに残酷なまでの苦しみを生き抜いた水俣病の患者とその家族の言葉にならない祈りによってもたらされている、それが石牟礼道子の今も続く強い実感です。『苦海浄土』を読む意味は、石牟礼を通じて、苦難を生きたものから発せられる「荘厳」の働きにふれることである、ともいえると思います。
『苦海浄土』は、単なる告発の文学ではありません。むしろ、光源の文学です。水俣病の原因を作った企業あるいは地方行政、国家行政の欠落を照らし出すだけでなく、言葉を奪われた人々の心の奥にあるものも、白日のもとに導き出すのです。
■『NHK100分de名著 石牟礼道子 苦海浄土』より
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一つは、この作品がいわゆる「ノンフィクション」ではないこと、そしてもうひとつは、自分はこの作品の真の作者ではない、と彼女が感じていたところにあるように思われます。
近代文学では通常、作者がいて作品がある、作品は作者に属するものである、と考えられます。社会的にはもちろんその通りなのですが、『苦海浄土』をめぐっては、本質的にはそれとは異なる意味があります。少なくとも石牟礼にはそう感じられていたように思われます。『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女は様々なところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています。
ノンフィクションでなければフィクションなのか、ということになりがちですが、私たちは、そもそも文学を、ノンフィクション、フィクションで二分しなくてはならないのでしょうか。
作家の遠藤周作が新約聖書にふれ、この書物は、文学としても、もっとも優れた作品であるといい、そこには事実だけではなく、その奥に秘められた真実も描かれていることを読者は忘れてはならないと語っていましたが、同じことは『苦海浄土』にもいえると思います。
この作品の成り立ちをめぐって彼女と話をしたことがあります。そのとき、彼女は、現代詩の枠組みを超えた新しい「詩」のつもりで書いた、と語っていました。
『苦海浄土』は、詩である、と聞くと何か違和感を覚えるかもしれません。ただ、ここでいう「詩」とは、単に文学の一形式としての「詩作品」であるだけでなく、文学の根源的な精神を表象する「詩情」の結晶である、と考えることができるのではないでしょうか。また、詩には決まった形式は存在しないということも、ここでもう一度思い出したいと思います。
ともあれ、『苦海浄土』という作品が、既存のどのジャンルにも当てはまらない、まったく新しい文学の姿と可能性を伴って現れた、20世紀日本文学を代表する作品であり続けていることは、すでに動かせない事実となっています。
『苦海浄土』の第一部は、全七章からなる作品ですが、第一章から順に書かれたのではありません。第三章の「ゆき女(じょ)きき書」に当たる部分から誕生しました。それを核にして、あたかも何者かによって光が放たれるように作品世界が広がっていきます。
現在、第三部までは公刊されていますが、第一部に続いたのは第三部『天の魚』(1974年)でした。そして第二部『神々の村』(2004年)が書かれたのです。今もその営みは続いています。
9月の『100分de名著』では、そのなかでも特に第一部に軸足をおいてこの作品を読んでみたいと思います。この第一部は作家石牟礼道子の原点であり、それを読むことはおそらく現代日本文学の大きな岐路を目撃することになるからです。
時間は過去から未来へと進んでいく、私たちはそう信じて疑いません。しかし、この作品には、過ぎ行く時間とは別の永遠につながる「時」が描かれています。ある文章で石牟礼は、水俣病で亡くなった人は「未来へゆくあてもないままに、おそらく前世にむけて戻ろうとするのではあるまいか」(『わが死民――水俣病闘争』)とすら述べています。
計測可能な時間のなかで、すべてのことは過ぎ去ってしまうのか。けっして過ぎ去ることのない永遠に連なることが、この世にはあるのではないか。生命は滅びる。しかし、万物の「いのち」はけっして朽ちることがないのではないか、と彼女は全編を通じて読者に問いかけてきます。
『苦海浄土』を書いているとき、どんな心境でしたかと彼女に尋ねたことがあります。しばらく沈黙してから彼女は「荘厳(しょうごん)されているように感じました」と答えました。
「荘厳」とは、もともとは仏教の言葉で、仏の光によって深く照らしだされることを意味します。また、荘厳という言葉には人間の感覚を超えた響き、香り、輝きが広がり、また何ものかに包み込まれるような語感があります。真の意味における浄福と考えてもよいかもしれません。しかし、石牟礼が用いる場合には、特定の宗教的背景はありません。彼女が書くと、その底には留まらない広がりと深まり、さらには深い悲しみがあることに気づかされます。
荘厳の光は、苛烈な、ときに残酷なまでの苦しみを生き抜いた水俣病の患者とその家族の言葉にならない祈りによってもたらされている、それが石牟礼道子の今も続く強い実感です。『苦海浄土』を読む意味は、石牟礼を通じて、苦難を生きたものから発せられる「荘厳」の働きにふれることである、ともいえると思います。
『苦海浄土』は、単なる告発の文学ではありません。むしろ、光源の文学です。水俣病の原因を作った企業あるいは地方行政、国家行政の欠落を照らし出すだけでなく、言葉を奪われた人々の心の奥にあるものも、白日のもとに導き出すのです。
■『NHK100分de名著 石牟礼道子 苦海浄土』より
- 『石牟礼道子『苦海浄土』 2016年9月 (100分 de 名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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