『斜陽』に出てくる“だめんず”は太宰治本人だ

太宰治の『斜陽』に登場する直治と上原を、作家で明治学院大学教授の高橋源一郎(たかはし・げんいちろう)氏は「だめんず(だめなメンズ、男性)」と形容する。かず子の弟の直治は、麻薬中毒からアルコール中毒に陥り、退廃的な生活を送った末に元貴族という身分を恥じて自殺する。小説家の上原は酒びたりで喀血するほどに体を壊しているが、かず子との会話でこんなことを言う。
「死ぬ気で飲んでいるんだ。生きているのが、悲しくて仕様が無いんだよ。わびしさだの、淋しさだの、そんなゆとりのあるものでなくて、悲しいんだ。陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞えている時、自分たちだけの幸福なんてある筈(はず)は無いじゃないか。自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無いとわかった時、ひとは、どんな気持になるものかね。努力。そんなものは、ただ、飢餓の野獣の餌食(えじき)になるだけだ。みじめな人が多すぎるよ」
この上原と直治は、太宰本人なのだと高橋氏は指摘する。

* * *

上原は、太宰治本人だ。いっていることも、どんな小説を書いている作家なのかも、どこで暮らして、どんな家族構成なのかも、どんなことをしゃべり、どんな風に思われていたかも、読めば読むほど、上原と太宰はそっくりになってくる。もちろん、そんなことは、百も承知で、太宰はそう書いたのである。
いや、作中で、かず子にもいわせている(手紙に書かせている)。
私、不良が好きなの。それも、札つきの不良が、すきなの。そうして私も、札つきの不良になりたいの。そうするよりほかに、私の生きかたが、無いような気がするの。あなたは、日本で一ばんの、札つきの不良でしょう。そうして、このごろはまた、たくさんのひとが、あなたを、きたならしい、けがらわしい、と言って、ひどく憎んで攻撃しているとか、弟から聞いて、いよいよあなたを好きになりました。
みんなから、世間から攻撃される不良。それが、上原だ。では、なぜ、上原は「日本で一ばんの、札つきの不良」なのか。人を殺したから? 強盗したから? なにかをぶち壊したから? 人の道に背くような非道なことをしたから?
そうではない。ひどい人間は、山ほどいるからである。ついこの間、とてつもない規模の戦争があって、たくさんの人びとが亡くなったばかりだ。そのひどさに比べたら、上原が「不良」だといってもかわいいものだ。せいぜい、酒を飲んで(でも自分の金を使っているのだし)、家族を放っておいて(でもちゃんと家には戻ってるし)、他に女を作る(これは言い訳できないけれど、少なくとも太宰はその責任をとってすぐに死のうとしていたし)、それぐらいだ。
なのに、社会や世間が、上原を糾弾するのはなぜなのか。
それは、上原がなんでも明らかにしてしまうからである。上原は、あっけらかんと、自分がやっていることを書いてしまうのである。自分がどんなにひどいことをやっているかを、みんなの前に見せてしまうのである。まるごと全部。だから、世間や社会は、安心して、上原が提出した証拠に基づいて、上原を責めることができるのである。
では、いおう。どうして、上原は、そんなことをしてしまうのか。自分の悪事を、白日の下に晒(さら)そうとするのか。
誰も、そうしないからだ。罪ある人は、たくさんいるはずだ。あの、巨大な戦争という惨禍の罪。それから、社会の隅々まで広がっている、様々な矛盾、その中で押しつぶされていった人たち、彼らを追いこんでしまった罪。その他、もろもろ。
けれど、誰が、上原のように、自分の罪を告白しただろう。誰もいなかったんだ。みんな、黙って、知らないふりをしていたんだ。
『斜陽』を発表した翌年、即ち、最後の年の一月、太宰は喀血する。『斜陽』で上原に起こったことが太宰に起こったのである。そして『人間失格』を書きながら、太宰は、『如是我聞(にょぜがもん)』という文章を書いた。これは、自分の小説を「つまらぬ」と評した、当時の文豪・志賀直哉への、激烈な反駁文(はんばくぶん)だった。
一言で言おう、おまえたちには、苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫(あいぶ)するかも知れぬが、愛さない。
おまえたちの持っている道徳は、すべておまえたち自身の、或いはおまえたちの家族の保全、以外に一歩も出ない。
重ねて問う。世の中から、追い出されてもよし、いのちがけで事を行うは罪なりや。
私は、自分の利益のために書いているのではないのである。信ぜられないだろうな。
最後に問う。弱さ、苦悩は罪なりや。
これをいっているのは「上原」である。いや、「上原」の若き日、「直治」であるのかもしれない。「直治」は、作家以前の「上原」でもあるからだ。
ここに、直治=上原=太宰の必死の叫びがある。
小説家、作家と呼ばれる人びとは、どんな人びとなのか。
「ほんとうのこと」をいう人である。「ほんとうのこと」とはなにか。それをいわれると、世間が困るようなこと、である。
この世には、恋と革命のような素晴らしいことがある、というのも、世間が隠していた「ほんとうのこと」であるのは、かず子が書いた通りだ。太宰が、志賀直哉という人に、怒りをこめて反駁の文を書いた。そこには「苦悩の能力が無いのと同じ程度に、愛する能力に於ても、全く欠如している。おまえたちは、愛撫するかも知れぬが、愛さない」と書いてある。
それは、どういう意味なのか。
志賀という人の小説にも、恋愛は出てくる。それから、女性も出てくる。けれども、それは、かず子のような女性ではない。というか、かず子のように、たくさんしゃべったりはしない。だいたいは、黙って、志賀という人の小説の主人公のガールフレンドになって、おとなしく、「愛撫されている」だけなのである。まるで「人形」みたいに。
志賀という人の小説だけではない。太宰治以外の小説家の小説に出てくる女性は、多くの場合、「人形」みたいだ。登場人物の男性は、苦しんだり、悩んだり、思っていることをしゃべったりするけれど、女性は、だいたい、ニッコリ笑って、その男性が「愛撫」してくれるのを待っているだけなのである。
そんなの「人間」じゃないのではないか。
いや、女性を「人間」扱いしてこなかった、世間や社会と同じことをやってるんじゃないか。それが、太宰の怒りを爆発させたんだ。
確かに、直治も上原も、それから、実は、彼らと同じ人物である太宰も、みんな、「だめんず」だ。うまく生きることができない。失敗ばかりしている。それは、彼らが、「ほんとうのこと」を知っているからだ。あるいは、「ほんとうのこと」を知って、それをしゃべってしまったからだ。男性にとって不利な事実をばらしてしまったからだ。けれども、かず子だけは知っていた。彼らだけが、ほんとうは、彼女にとって「同志」となれる存在だということを。
そんな男たちに、かず子は、全力で恋したのである。
■『NHK100分de名著 太宰治 斜陽』より

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