『水道橋博士のメルマ旬報』傑作選 柳田光司「ツービートという漫才コンビの歴史のスキマを掘り返す その​3 ~歴史に埋もれた悲運の芸人『S』~​」

芸人・水道橋博士が編集長を務める、たぶん日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』。岡村靖幸、酒井若菜、サンボマスター山口隆他・・・1回に48人の豪華連載陣が集うという、定期刊行物としてはムチャクチャなスケールで話題をよんでいます。
これまで過去の傑作選企画として、バックナンバーより選りすぐった神回を限定無料公開してまいりましたが、今回は、TEAMメルマ旬報きっての検証家・柳田光司氏の、このまま埋もれさせておくにはあまりに惜しい、過去の神回原稿を、お届けします。
歴史の闇に葬られた悲運の芸人『S』の人生が、今改めて光を浴び始めました。
長文ですが、是非、お読みください。


(水道橋博士のメルマ旬報 編集/原カントくん)


以下、『水道橋博士のメルマ旬報』Vol⒑ (2013年3月25発行)より一部抜粋〜

......・・・..................・・・......

柳田光司 『はかせのスキマ』

毎回、『水道橋博士のメルマ旬報』の連載記事から、ツッコミのスキマを
探して、さらに掘り起こすというこのコーナー。
という訳で、今号の『はかせのスキマ』はこちら!

杉江松恋『マツコイ・デラックス~われわれはなぜ本屋にいるのか?~』より
―――連載第2回目の指定図書 ビートきよし著『相方』

「ツービートという漫才コンビの歴史については、
これまで曖昧な形で 語られることが多かったように思う。
(中略)
そのへんの事情が 今回の本ですべて解明された形である。」

今号で、三回目のルポとなる このシリーズ。
今回は 肝心要の部分。(個人的に)ビートきよしさんから語られないまま...
"スル―している箇所"『ツービートの真実』に 迫ろうと思う。

まず、ここで 公式化されている『1970年代のツービート』の足跡を整理してみょう。

【1972】(昭和47年)
1972年夏。北野武(25)浅草フランス座に入門。エレベーターボーイのたけし と 先輩きよし(23)と出会う。
       
【1973】(昭和48年)
1973年 ?月 北野武=『北千太』の芸名で 役者修行スタート。3月 作家志望・井上雅義氏 浅草フランス座に入門。

【1974】(昭和49年)
1974年?月。兼子二郎(ビートきよし)と漫才コンビ結成。松鶴家二郎・次郎(二郎=きよし)(次郎=たけし)空たかし・きよし 二度のコンビ別れを経て『ツービート』を結成。

【1975年】(昭和50年)
1975年4月~9月『ライバル大爆笑』(東京12チャンネル)テレビ初出演。(司会)ヒデとロザンナ (サブ)桂歌丸 三遊亭小圓遊(ゲスト)「コメディ№1」「蒲田・電子工学院」にて収録?月『大正テレビ寄席』(NET現テレ朝)妻・幹子さん(ミキ&ミチ)と出会う。
冬『やじうま寄席』(日本テレビ)
セントルイス"と対決。司会の柳家小ゑん(立川談志)から絶賛される。
その後、同番組の(若手挑戦コーナーのレギュラーに格上げ)

【1976年】(昭和51年)
1976年正月OA 特番『爆笑パニック!体当たり60分』(東京12チャンネル)
伊藤輝夫(テリー伊藤)演出で初の海外ロケ 敢行
「ローマでパンツ一丁のアポなしロケ」を敢行

?月 『ちびっ子集まれ!海賊船』(東京12チャンネル)
ツービート初のレギュラー司会。二本録りのうち一本目で降板。

?月 ▲たけし、コメディアン志望の男H(ハーキー)と新コンビ結成。
地方ドサまわりコント『リズムフレンド』~解消。
まもなくして三度目のコンビ組み直し『ツービート』で再出発。

6月(下席)「浅草・松竹演芸場」(漫才・ツービート)として出演。▲復活?

【1977年】(昭和52年)
1977年1月3日(OA)『日本放送演芸大賞』(フジテレビ)

?月NHK漫才コンクール(2度目) セントルイスに敗れ...最優秀賞を逃す。

【1978年】(昭和53年)
1978年
10月17日 『第16回オールスター秋の紅白大運動会』(テレビ朝日)
11月13日 週刊平凡パンチ ファーストインタビュー(ライブ告知も)
11月30日 高田馬場芳林堂『マラソン漫才・ツービート・ギャグデスマッチ』

【1979年】
1979年1月29日『週刊平凡パンチ』グラビアページを飾る。
(ライターは、フランス座の同志。井上雅義さんのデビュー記事)
「クソミソ、ボロクソ、ナマイキ、メチャクチャなどなど。世の悪評という悪評を逆手にとって暴れまくり、もっか人気上昇中の若手毒舌漫才師、ツービートが爆発」
  
4月2日~『ハーイ、2時半です』(静岡けんみんテレビ)(9月24日最終回)
ツービートは水曜日(4日~)の「ふるさとクイズ」を担当。

4月6日~11日『お花見バラエティー』(フジテレビ)
※後のゲーハー佐藤演出の週替わり実験企画バラエティー。
ツービートは金曜日(6日)番組進行の大役を果たす。

4月29日OA 『末広演芸会』(テレビ朝日)

9月6日 横浜スカイ劇場TBS『漫才十八番』収録 『Wヤング』と初共演。

9月12日 たけしの父・菊次郎さん 逝去

10月6日『花王名人劇場』 国立演芸場で収録。⇒(11月4日 OA)
「今晩は、八っつあんはいかが? 円鏡VSツービート」⇒後にLPで発売!

10月21日OA 『末広演芸会』(テレビ朝日)

12月15日OA 『お笑い大集合!』(フジテレビ)
ツービート準レギュラー 構成作家・高田文夫氏と初仕事

【1980年】(昭和55年)
1980年1月1日生放送 『初詣!爆笑ヒットパレード』(フジテレビ)
ツービート初の生放送。(野外で震えながら漫才)
1月1日生放送 『東西寄席中継』(NHK)

1月??日~『三波伸介の凸凹大学校』(テレビ東京)レギュラー出演へ
3月19日 『スター千一夜』「漫才ブームの仕掛人ツービート」OA
4月1日 『火曜ワイドスペシャル・THE MANZAI 』OA

この先の活躍は、もう語る必要もないだろう。
だが、【1974】(昭和49年)の コンビ結成の経緯があまりにも不透明である。
―――ここでは、数あるツービートに関する 演芸資料の中でもっとも信頼できるデータ。
『幸せだったかな ビートたけし伝』(著・井上雅義)
そして、ビートきよしの最新刊『相方』を要約するとこうなる。

(1) (きよし談)フランス座を出て 東京漫才でも重鎮に入るといわれている
『松鶴家千代若・千代菊』一門に弟子入り。
コンビ名は『松鶴家二郎・次郎』(名付け親は、松鶴家千とせ)

(2) (きよし&井上談)相方を紹介してくれたのは、(ゆーとぴあ)ホープ。

(3) (きよし談)⇒ホープの口をきいてもらい 名古屋「大須演芸場」へ出演が決まる

(4) そのコンビがいきなり評判がよく「月10日間。1年間」のスケジュールが決まる。

(5) しかし、ここで問題発生!(以下、きよし談)
・漫才コンビを組んだ相方の師匠は(浅草の強面)「レオナルド熊」
・修行中の身だった弟子を無断で相棒にしたため、(きよしは)泥棒呼ばりされる
・熊から、指をつめてオトシマエをつけろ!と脅され コンビ解消。

(6) (きよし談)⇒困ったことに、松鶴家一門の後ろ盾で、新人漫才コンビは、
       大須の次の出番が取り付けてある。
       「来週にも、大須へ行かなければ...師匠の顔に泥を塗る!」
(7) そこで、きよしは、気心しれたたけし(弟弟子)に懇願する。
『10日間だけでいいから 体を空けてくれないか?』と口説く。

―――ちなみに、この会話は 井上さんを含めた三人で行われた。
場所は きよし行きつけの喫茶『カンテ』。
きよしの、山形訛りを演歌の節まわしのように喋る話に...たけしは揺れていく。

(8) この時、たけしは フランス座内で隅に追われ 肩身の狭い身であった。
(理由は、前号を参照)
「10日の休みくらいなら...頼んでみるよ」と、たけしは大須行きを決意。

(9) 10日後。たけしは、名古屋大須から帰ってきた。
井上の「どうだった?」という問いに たけしは端的に答えた。
(井上談)
・大須は、関西からもいろんな芸人が来ていて面白かった。
デビューしたての(関西の)若手芸人でも 圧倒的に面白かった。
やっぱり漫才は【大阪】だってのがよくわかった。
外に出るといろいろ勉強になる!浅草に閉じこもるのはよくない。

・自分たちの「漫才」は...初めてだし、稽古不足。スベッてばかりで悲惨。
 第一"漫才"(というスタイル、様式)になってるのか?もわからない。
 『漫才』をやるのは(浅草コントとは違い)"ネタから"やらなければ ならない!

尚、ビートたけしの『コマネチ』の巻末年表と照らせ合わせて見ると...
この関西の若手漫才師は当時結成2年目の『大木こだま・ひかり』
大木こだま・ひかりは、当時としては師匠を持たないノーブランド芸人。
屋号である「大木」は、身長が高いことに由来する。

たけし曰く、この大須で見た『こだま・ひかり』の上手さに愕然とし...
今まであったAとBの掛け合い漫才(オーソドックス型)を断念。
VOL8にあった 大須席亭の息子さんの証言と照らし合わせれば...
その翌月の出番では...早くも『ツービート』の原形があったと推理される。

ちなみにここからは、余談になるが...「こだま・ひかり」はこの4年後。
昭和53年の「NHK上方新人漫才コンクール」で最優秀話術賞受賞。
デビュー半年のグリーンボーイ。鼻っ柱強かった紳助・竜介にTKO勝ち。 
その常軌を逸した『大木ひかり』のツッコミは 評価が高く
関西の喜劇作家であった香川登枝緒さんは「第二のいとしこいし」と嘱望。

★余談の余談であるが...★

『新幹線コンビ』として期待された「こだま・ひかり」
だが、後陣のツービート、紳助・竜介に大きく差をあけられた。

1980年11月。弱小事務所に所属していた彼らは、
MANZAIブームのど真ん中に『お笑いスター誕生!!』に登場。

その実力で快進撃を続け...ストレートで9週を勝ち抜き...いよいよ王手!
運命の日を迎える。
1981年1月某日。「東京・山野ホール」
10週グランプリ本番直前。収録会場に刑事がやって来る。

「大木ひかりを、覚醒剤所持容疑で逮捕する」と台詞に...

番組プロデューサーは「グランプリ挑戦なんだから...ちょっと待って」と頼み込む。
そして「大木こだま・ひかり」は 番組史上4人目のグランプリ受賞。
紙吹雪舞う中、皆から祝福。
舞台には、9週目失敗のイッセー尾形、6週目通過のでんでん、2週目 通過のWコミック 
そして関西期待の女性漫才師であった2週目通過の ミヤ蝶美・蝶子がいた。

だが...その数秒後、大木ひかりは覚醒剤取締法違反(使用)容疑で逮捕。 コンビ解消。

番組は、逮捕発覚の時点で6週目(1981年1月31日OA)は放映済み。
翌7週目(2月7日OA)も差し替え編集が間に合わず...
「この放送は○月○日に収録したものです」の注意テロップ入りで放映。

個人的な記憶では...8週目以降からはテレビで放映されず、グランプリも剥奪。
9週目のエンディングでは、こだまさんが、なぜか?...店先にある巨大ソフトクリームを抱え映り込み10週目の放映では、舞台に沢山紙テープが投げ込まれ...花束を抱えた2人がチラッとだけ映っていた。(...あくまでも漫才好き少年の記憶であるが...)

この一連の因果な事件を、ザ・ぼんちの里見まさとさんは漫才版「砂の器」と命名。

奇しくも時代は『ビートたけしのオールナイトニッポン』の全盛期。
名古屋・大須演芸場で「こだま・ひかり」を見て ツービートが軌道修正しなければ...
まさしく因果なドラマである。―――――話を戻そう!

(10)...大須での10日間で、たけしの漫才観は 180度変わったように思われる。
ネタの受け、客前の反応など気にせず...
それまで芸だと思わなかった『漫才』そのものに 強く魅かれたのかもしれない。

だが その後 すぐ「MANZAIブーム」の大波が来たわけではない。
松鶴家二郎・次郎(二郎=きよし)(次郎=たけし)
空たかし・きよし 二度のコンビ別れを経て『ツービート』を結成。
食えない時代、兼子(きよし)さんは、オカマのヒモ生活を送りながら耐え忍び
たけしさんは、何度もフランス座に出たり入ったりしながら...
先輩や顔見知りのお旦(スポンサー)の世話になりながら「漫才」をやっていた。

―今号では、そんな「ツービート夜明け前」について さらに詳しくレポートしてみたい!

車から降りた俺は、まばたきせず こちらに向かって来る男に大声で挨拶した。
大型駐車場の対角線上から 右手を上げながらやってくる男に挨拶した。 
男性は『S』という名前であった。――今回はプライバシー保護の為『S』と表記。
俺は、今から...歴史の闇に葬られた 悲運の芸人『S』の墓を掘り起こそうと思う。

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Sは、漫才師とは 思えぬ 腰の低い男だった。
Sは、想像していた以上に 小柄であった。
Sは、『ツービート』の片割れだった。
コンビ名を 考えてくれたのは、『ビートたけし』だった。

その場所は、『ビートきよし』行きつけの喫茶店『カンテ』だった。
直系の師匠もいない。マネージャーもいない。何の後ろ盾もない2人のコンビ名は、
自分たちで決めるしかなかった。
だが、それさえも 他人まかせの ふたりであった。

Sは、昭和48年の暮れ。オイルショックで揺れている頃...
はじめて"たけし"と対面した。
フランス座を飛び出した"きよし"は相方(S)と共に 
深見千三郎に挨拶をすませ"後輩たけし"を お茶に誘った。
この頃、フランス座で隅に追いやられていた"たけし"は 饒舌だったらしい。

たけしは、「漫才師って、カタカナのコンビ名は駄目なの?」あくまでも他人事だった。

たけしは、漫才に対して無関心。思い入れなど まったくなかった。
     まさか 自分が この数か月後  漫才師になるなんて 夢にも思わなかった。
   
Sは、26才だった。そろそろ、芸人として...結果を残さなければならない 年齢であった。
   だが、そんな自覚など 微塵もなかった。

Sは、(ゆーとぴあ)ホープの弟分であり舎弟であった。
Sは、いつも 何処に行く時も... ホープの後ろを金魚の糞のようについて回っていた。

Sは、ホープから 何の説明も受けないまま"きよし"を紹介された。
   その数か月前には、"石倉三郎"を紹介されていた。

   強面で押しが強い"石倉三郎"に対し...「S」は物怖じせず、笑いについて語った。
   ...短気な石倉は、「S」に対し「生意気な野郎だ!表に出ろ!」と迫ったが
   「S」は慌てふためく事なく 喫茶店の支払いを済ませ 店から出て行った。
   それに比べ 新しい相方(きよし)は 浅草芸人とは思えぬ涼しい顔をしていた。

Sは、ひとつ返事で OKサインを出した。
   ふたりは、互いの芸風も実力も まったく知らないにも関わらず意気投合した。
   『漫才のまの字も知らない』...コント志向の若手ふたりであったが不安はなかった。

   ...最悪、ダメなら、コンビなんて別れればいい。
   当時の、浅草芸人の素顔なんてのは、映画や小説に出てくるような...奴はおらず
   「ドーランの下に 泪を隠す 喜劇人」なんて 一人も見たことないですよ(笑)
私(S)を含めて『みんなゴミ』!
   今で言えば... 若い男と女が 一夜限りに交わりたいだけで...組む感覚ですよ!
Sは、大好きなコーヒーを飲みながら 笑ってみせた。

とり急ぎ、ふたりのスケジュールは 地方のドサまわり営業。
初代ツービートの初仕事は、ストリップ劇場にも満たない 温泉街のヌード小屋。

...そして、運がよければ グランドキャバレー。
浅草『国際』 新小岩『エンパイア』にはじまり 盛岡『ミス東京』八戸『山小屋』
函館『未完成』 長万部『民家風キャバレー』札幌『エンペラー』に向けて北上。  
そして、この先に 何もないと判断すれば...再び 東京へめざし 帰路へ向かう。

スケジュールを 強引に押し込んだのは..."きよし"だった。

正直、ギャラなど... 交通費や飲食代を差し引くと"ない"に等しかった。
しかし、コレは常館がないに等しい 関東芸人の試練であった。
関東漫才師にとって 何よりも必要なのは 客前の経験値であった。
だが、歌手や踊り子のため ステージが高い舞台は 漫才に不向きだった。
とはいえ、浅草や上野にある"演芸場"に出演するためには 形だけでも一門に入り
「松鶴家」「青空」「コロンビア」...といった屋号(免罪符)が必要であった。

このルールの隙間を いち早く目をつけたのが 「南けんじ」だった。

ビートたけしの『漫才病棟』には 浅草の松竹演芸場の漫談家。
身長150㎝にも満たない体で 頭が大きい三頭身の体。
芸人仲間からは、『頭ケンの師匠』という愛称で呼ばれていた男だ。 
どんな悪状況でも 生き抜く悪知恵を持つことも 浅草芸人の条件。
南が、いち早く 目をつけたのが 飯つき、枕付きの名古屋大須演芸場であった。
1973年(昭和48年)11月に 席亭が変わったばかりの
名古屋大須演芸場には そんな堅苦しいルールなど なかった。

きよしは、浅草六区界隈では、芸人仲間に顔が広く 社交的な男だった。

きよしは、フランス座を飛び出し、オカマの踊り子と新宿のアパートで同棲するほど...
生きることに対して 手段を選ばない 強靭な男であった。
そんな男が南けんじからの漫才仕事。"大須行き"を 断る理由がなかった。

きよしは、壮行会と称し「S」を新宿のアパートに誘い すき焼きをふるまった。

Sは、エプロン姿で 甲斐甲斐しく すき焼きの段取りをする女性(愛称・おタカさん)が
   ...まさか 元・男性であるなんて 夢にも思わなかった。

きよしは、周囲から『ネコ』と呼ばれていた。本名の"兼子"から獲ったあだ名だった。

Sは、"きよし"のことを『二郎』と呼び捨て... 
きよしは、Sのことを『お前』『あんた』『Sイチ』と呼んでいた。

Sは、ネタを考え... きよしに 口立てで教える。
"教える"と言っても ふたりの間に 上下関係はない。

きよしが言う『S』と『二郎』が組んだコンビ名は『松鶴家二郎・次郎』は
大須演芸場の席亭や息子の記憶になく... 香盤表にも残ってはいない。
東京からやって来た漫才師は、最初から『ツービート』であった!

たけしがいない...初代ツービートは、1974年(昭和49年)2月。
日本中が、オイルショックで揺れているころ 名古屋大須演芸場の板にあがった。
その出来栄えは 新人らしからぬ 落ち着いた漫才であったという。

Sは、相方きよしを 『二郎ちゃん~』と甘えながら呼びかける。
『二郎ちゃんの言うことは...正しいけれどぉ~』と終始 やさしく誉め殺す。


Sは、ボケ... きよしはシンプルに突っ込む。
だが、Sの考え出すネタは これまでの漫才師では珍しいスタイル。
それまでの寄席にはなかった 理数系の匂いがする"アカデミックなネタ"。
初期ツービートが好みそうな...時事がらみの"ブラックなテイスト"であった。

S 『オイルショックの対処、私 考えました。
生命力が強い あぶらむし(ゴキブリ)を養殖。そして... 
おろし金で 擦りおろし 土に埋めて 石油を作ります! 
あとね、おじいちゃん おばあちゃんも火葬せず... 乾く寸前に おろし金!』

きよし『よしなさい!』

S 『...よしなさいって!
...二郎ちゃんの言うことは...正しいけれどぉ~ 
まともな事ばっかり言っても~~ね。私、漫才師だから...』

きよし 『そんな意味で 言ったんじゃないよ!お前はバカか!?』

  S 『...まぁ、二郎ちゃんよりはマシだけどさぁ~」...と終始やさしく誉め殺していく

―――― まずまずの評判であった。
当時、漫才師といえば お客をいじり回し 己の容姿の悪さで笑わせるものがほとんど。
しかし、この『ツービート』の客に媚びない芸風と夜の匂いがしない上品な出で立ちは、幼少の頃から江戸落語を好む 大須の席亭(足立秀夫)の心をがっちりと捉えた。
席亭は 漫才云々より 朝刊紙の一面に載ってそうな難しい時事問題を 独特のアングルから笑わせるSの才能。何とも言えないミドルテンポの漫才に惚れ込み 将来を熱望した。

彼らは、わずか一回のチャンス(10日間の出番)で、向こう一年間の切符を手にする。
漫才師らしからぬ"ゆったりとした温和なSの口調"は、彼が育った家庭環境にあった。

Sは、1948年(昭和23年)山梨県甲府市で生まれた。
Sは、裕福な米屋(豪商)の倅だった。
   その話は 七掛けにしても 十分過ぎるほど 金持ちであった。

Sは、放蕩息子だった。その自覚すらない お調子者だった。
Sは、何をやるにしても...いちいち恵まれ過ぎていた。
Sは、"ぐれる理由"が なかった。その反動からか?「非道に生きる男」に あこがれた。

Sは、その思いを叶えるべく...自ら、中卒の道を選び 社会の荒波に飛び込んだ。

Sは、転々と職を変えたが 何の不安もなかった。
Sは、東急バスのバスボーイ(バスの乗車券売り)をしていた。

Sは、東京府中で とびっきりの彼女と同棲していた。
Sは、その彼女と結婚できれば 何も要らなかった。
Sは、このとき 初めて この世に 生を受けたことに感謝した。
   だが、それは 男の勘違い。とんだ空回りだった。 
   金に糸目をつけない 放蕩息子が モテないわけがなかった。
それは 奇しくも、三億円事件がおこった最中であった。
Sは、事件以来、何度も 警察から尋問された。
Sは、まさか自分が白バイの男と 疑われているなんて 夢にも思わなかった。
   それほど 男が毎晩使う カネは 常時を逸したものであった。

Sは、結局 彼女と結ばれなかった。
Sは、ふられた。

Sは、あっさりと故郷に戻った。
Sは、甲府の実家で 家業を手伝うだけの 平凡な毎日を送った。
Sは、...気づけば 21歳になっていた。

Sは、生まれ故郷にない 刺激を求め 再び、家を飛び出した。
   たどり着いた先は、山梨県の石和(いさわ)温泉。
そこには 東京にはない 淫靡なフェロモンであふれていた。

Sは、この温泉地に集まる「訳アリな女」「手軽にカネを稼ぐ阿婆擦れ」
...それに群がる「訳アリな男たち」と過ごすモラトリアム生活を満喫していた。

Sは、自分自身の生きる場所を求め彷徨いながらも...ここでも傍観者であった。

Sは、いつの間にか 小さなヌード劇場の照明係に潜り込んでいた。
呼び込みの客引きババァ。入場料を受け取ったババァが 自ら舞台に立つ。
Sは、踊り子の股間に 燃え尽きるような 安物の照明を 当てながらも 退屈していた。

Sは、この温泉地で 後に兄貴と慕う"ホープ"と出会った。
   時間を持て余していた"ホープ"は師匠を訪ね 腹を満たしにやって来た。
   
ホープの師匠とは、後に石倉三郎と一世風靡する『コント・レオナルド』の
『レオナルド熊』 当時の芸名は『熊にげろう』であった。

Sは、『芸人』という稼業で 糊口(ここう)を凌ぐ者がはらむ 狂気と艶気に魅かれた。

Sは、この淫靡な怪しい香りに誘われ... 二度目の上京を即決した。
愛車パブリカに 服を詰め込み 田端にあったホープ宅を訪ねた。 
Sは、――――完全にはめられた。

Sは、絶好のカモ!...いや"熊のカモ"となり 身ぐるみ すべて剥がされた。
愛車のパブリカは、勝手に乗り回され... 
持って来た高価な衣装は その場で兄貴分(ホープ)所有となった。
Sは、上下ジャージを支給された。
   その日から、熊が経営する 大塚の呑み屋に 無給でこき使われた。

Sは、上京したその日から、娑婆っ気を抜かれ(芸人への)血の入れ替えが行われた。
   それは、閉ざされた宗教施設と同じやり方だった。

熊は、とにかく金に汚かった。
熊は、開口一番「客を気分よくさせろ!ココは舞台といっしょだ」と尤もらしく言った。

熊は、「いかにも一般大衆が...」と「酒好き」「ギャンブル好き」「貧乏人」を演じ続けた。
...だが、本当の熊は「貧乏人」ではなかった。
億単位の金はなかったが...「小銭」には不自由したことがない芸人だった。

熊は、潜伏期間30年の「ドサ回り芸人」であったが...常にさまざまな副業も行っていた。
金に汚い上に彼女まで寝取る、常軌を逸した苛めと搾取に耐え切れなくなり、
数多くの弟子たちは 彼を避け 皆 逃亡して行く。...それが熊の素顔であった。
背が低く、ガニ股で短足。小太り。見るからに胡散臭い。それが熊のすべてだった。

Sは、そんな生活が馬鹿らしくなり 何度も何度も 山梨に逃げて帰った。
   しかし、暫くすると また刺激を求め 東京に戻る。その繰り返しの日々。

   山梨の実家に 引き込んでいる時...何処からともなく 兄貴分が現れた。
   『熊さんが、やっぱり...お前じゃないとダメだと言っているんだ!来いよ!』 
何の説得力もないピースの言葉であったが...『S』にとっては麻薬同然だった。

Sは、熊と共に初舞台に立った。場所は地元甲府「人生劇場」というかび臭いヌード劇場。

Sは、熊から一言だけ告げられた。
「とにかく 先に出て 笑わせろ! 俺はタイミングを見て出るから」
熊にとって、相手は誰でも良かった。...素人であればあるほど 良かった。 
熊が、ストリップの幕間で演じる 不条理コントは 
それでも、相方を おちょくるような調子でボケまくり 独りで笑いをかっさらう。
熊が、相手を追い込めば 追い込むほど 客席が沸いた。
  
熊は、『躁鬱』が激しかった。
酒が入れば 生き生きとした表情で芸を語るが...浮き沈みがキツい男だった。
薬が効けば 体は活気を取り戻したが...『S』にとって それは苦痛でしかなかった。

熊は、夜中、早朝、所かまわず...クスリが切れるまで 何十時間も稽古をつけてきた。

Sは、常軌を逸した 熊の「いびり」と「可愛がり」に吐き気を憶えた。
   それは、明らかに 狂った男の 狂った行動であった。
逃げる。追いかけられる。連れ戻される。
   
熊は、追い詰めることに興奮をおぼえる サディステックな癖を抑える事ができなかった。

ピースは、熊の部下であり『S』を四六時中監視しろ!...と命令されていた。
ピースは、熊の忠実な部下であった。
ピースは、そんな弟分『S』が目のつく浅草で監視できるよう?相方を紹介した。
その相方候補こそが「ビートきよし」であり「石倉三郎」であった。

――――しかし、『S』は『ツービート』にも『レオナルド』にも...なれなかった。

短期間で評価された「初代ツービート」は、その年(1974年)のNHK漫才コンクールを見越した戦略を実現するべく、浅草松竹演芸場の出演も決定した。
その仲介(ケツモチ)をしてくれたのが...『松鶴家千代若・千代菊一門』。
この時...ふたりに与えられた芸名が『松鶴家二郎・次郎』であった。

...ここまで、事がトントンと上手く進めば「熊にスジ」を通さなければ進めない。

きよしは、ピースから「熊さんが、激怒しているぞ!」と知らされる。
     だが、土台...『弟分S』を「きよし」に紹介したのはピース本人なのだ。
     しかし、この矛盾に気づかないほど 熊の恫喝は凄まじいものであったらしい。

Sは、"きよし"と"新しい師匠"を引き連れ 大塚にあった熊宅に 詫びに行った。

Sは、『運』がなかった。
熊は、クスリが切れた 獣(ケダモノ)と化していた。
   錯乱状態に陥った熊は、いきなり激昂。 
いきなり、クリスタルの灰皿を きよしに向かって投げ捨てながら喚き散らした。

Sは、とことん『運』がなかった。
   そのクリスタルの灰皿が命中していれば...そこで話は終わっていたかもしれない。

   狡猾に立ち振る舞うことにかけては 天下一品であった『熊』は
この場で きよしに「ツービート」の解散を迫り
『S』には、戻らなければ...破門。浅草からの追放を... 言葉巧みに匂わせた。

きよしは、浅草の牢名主「熊」に従うしかなかった。
...だがそう簡単に コンビを解散し 新しい相方を見つけられるわけがない。

     その矢先...『熊』は浅草界隈に 信じられないデマを流す。
    「俺の弟子の"S"は... 師匠の嫁をカイタ(SEXした)最悪野郎です!」...と。

Sは、ゴミのような芸人仲間から うしろ指をさされ 酒の肴にされた。

熊は、あの"クリスタル灰皿事件"があってから数日後。重度の肺結核をこじらせ 
浅草のサウナで吐血。救急車で運ばれた。そしてその留守中。元・ストリッパーであった妻?と弟子「S」が良からぬ関係になった。
もう俺はこれ以上生き恥をかきたくないと 見舞客の前で号泣。
   
熊は、ひっきりなしに病室で泣き続け... しこたま見舞金を貯めこんだ。 

    そんな窮地に立たされながらも、従順な『S』は 『熊』の見舞いに出かけた。
病室に貼られたカレンダーは、白々しい小道具に変わっていた。
赤丸がつけられ、その横に『Sイチ破門!』熊にとってSは道具でしかなかった。

そんな『熊の暴君』に 熊の実兄と実弟は『S』に深く深く 頭を下げた。
冬の農閑期になれば...池田勇人宅に絵画を教える芸術家であった熊の実兄。
NHKの職員であり...渋谷勤務であった熊の実弟。 
そんな連中が 兄弟がしたとんでもない嘘をいくら詫びられても 無駄であった。

Sは、独りぼっちになった。
Sは、強く強く否定したが... 兄貴分のホープは 最後の最後までカマをかけてきた。

Sは、ホープが長をつとめる『田端グループ』のメンバーだった。
   だが...「S」にとって お旦(パトロン)(ゲスな社長)からチップを受け取れば
   生ビールの代りに小便を飲んで笑わせ、ケツの穴に一輪を刺され笑われる芸風を
   ゼニのために 演るのが芸界ならば... いつでも この世界を辞める覚悟だった。

それでも、Sは 最後の最後まで「漫才師」を夢見た。
もう一度、きよしと組み 大須の舞台に上がりたいと願った。
―――しかし、その夢は 二度と叶うことなく Sは年老いて行った。

Sは、噂に聞いていたより 優雅な 隠居生活を 送っていた。
Sは、三台の高級自家用車を所有していた。
Sは、100坪は優に超す土地に 誰がどう見ても億はくだらない豪邸の主だった。

Sは、元・漫才師らしからぬ 常識人であった。   

Sは、同じ年齢の 妻とふたり暮らしだった。
Sは、愛犬モモちゃんを我が子のように可愛がっていた。
Sは、早すぎる 隠居生活を送っていた。

Sは、29歳で結婚した。
相手は単身でドサ回りしていた余興先で知り合った女性であった。

Sは、ちょうどそのあたりから 芸界から 自然と遠ざかっていった。

   そのきっかけは、奇しくも あの時と同じ「石油」であった。

Sは、タンクローリーの運転手として真面目に働いた。
当時1リットル運送費は1円
タンクローリー一台分1万4000~6000リットル で1万6000円
   当時から珈琲を好み 煙草を吸わなかった「S」にはある意味適任であった。
頑張れば、頑張るほど、無理すれば無理するほど 金がついてきた
最初は雇われの身であったが... 一千万以上の借金をしてタンク車を購入。

Sは、合法の石油運搬業で少しづつ 少しづつ 地道に昇り詰めていった。

Sは、最高帝国バンクランキング63位まで 自力で成り上がった。
Sは、良い時は...年商数億円を稼いでいたという。
にも関わらず...最後の最後まで ゼニに対して執着は沸かない人生であった。

Sは、死ぬまで『熊』と『ピース』の行き方(←生き方?)を拒否し スパッと芸界から足を洗った。

Sは、今まで一度として 自分の過去を語ったことなどなかったらしい。
ましてや、自分が"笑芸人"であったことなど 語る必要など どこにもなかった。

Sは、三時間以上 俺に泣き言ひとつ 吐かなかった。

Sは、終始 自分を地獄に突き落とした「レオナルド熊」を『熊さん』と呼び...
   兄貴分であった「ピース」を『ピースさん』と呼び 遠い昔を懐かしんでいた。

「人生は長いようで短い。短いようで長い。」
「人生は、長い、長い、道のりを歩かなければならない」
「人生とは、痛みに耐えるものなんだ」
「人生は厳しい。そして、人生は2度ある」
 
Sは、兄貴分の言葉どおり「...人生を噛みしめながら」ここまで生きてきた。
Sが 芸界を去ったあと 兄貴分は極太ゴム紐を顔面に直撃させる芸で、脚光を浴び...
   師匠であった熊は 石倉三郎とのコンビで 一世風靡した。
―――それでも Sは 決して腐らなかった。
   
熊から「S」に電話があった頃 Sは十分稼いでいた。 
「熊さん...弱音を吐いたら ダメですよ。」と慰めた。
受話器の向こうから聞こえる 嗚咽。熊の泣き声。
「鬼の熊が泣いた」「あんた また、騙されてんのよ~」と妻は笑った。

Sは、その週末に上京。国立にある"結核病院"に出かけた。
  RCサクセションの忌野清志郎が坂の途中に住んでいた『坂の上』に病院があった。

Sは、数十年ぶりに 熊の病室を訪ねた。あのカレンダー事件以来であった。

Sは、喋ることも伝えたい事もなかった。怒りもなければ、殺意もなかった。
   Sの前で横たわる 死臭を放つ熊は 最後の最後まで命乞いする男だった。

Sは、死に際にあえぐ鬼の形相を見るほど ひねくれた性格ではなかった。
Sは、懐に忍ばせた見舞金を そっと週刊誌の下に置いてから 挨拶を交わした。

Sは、ずっと わかっていた。
裕福な家に生まれ、周囲の誰もが「カモにしていることを...」
事業で成功し、億単位の金が入り 周囲の誰もが「カモにしていることを...」

Sをカモにした暴君は、その数日後 死んだ。 

愛知県の一ノ宮の自宅から、Sは俺を 新幹線の『岐阜羽島駅』まで車で送ってくれた。

夜の7時を回ったばかりだが...陽が短い2月。
辺りはすっかり真っ暗。 俺がSさんと会った前日。 
TBSの夜のニュースワイドショーで「たけし」と「きよし」が新ネタ漫才を敢行。
その翌日、2013年2月10日は、『ツービート』が客前に登場する予定であった。

真っ暗な車中。レコーダーが回っていない空間で そのことを 俺が伝えると... 
男は冷静を装いながら 曝け出しはじめた。

「柳田さん!(俺)二郎と会う機会があれば...ぜひ伝えて欲しい事があるんです。
 私ね... ホントにね"熊さんのカミさん"カイテませんから!!!!」

ビートきよしさんと 会う予定など なかったが...「はい!」と元気よく答えた。
沈黙が続いた。
ことばが出なかった。

そんな俺の気持ちを察した「Sさん」は こんな話をしてくれた。

「ふりむけば?? ...哀しみなんて、ありませんよ」
「カミさん 食わせなきゃ... ただそれだけでした。芸人やめてから」
「芸人ってね...生き様ですよね。そう思いませんか?」
「私はね...たけしや二郎やサブちゃんみたいに 大きい志はなかったですね」

「でもね...私...『運』に忠実なのが 芸人だと思うんですよ」

「私ね...芸人としては"運"はありませんでしたね...」 

「私ね... ホントはね 二郎と漫才やりたかったですね。
 ... あれから いろいろと 新しい相方を探したり
 独りで漫談に毛の生えたようなことを演りながらも...
私は、二郎を超える奴とは巡り合うことが できませんでした」

『あれはね、確か...昭和52年の正月のことだったと記憶しています。
 俺がこの仕事でタンクローリーのドライバーをやりはじめた頃です。
 パーキングエリアで、朝飯を食いながら...ぼっ~とテレビを見ていたら...
 (たけし)と(きよし)のツービートが表彰状を貰っていたんです!』

『私ね...あの時ほど 驚いたことありませんでしたね!
 たけしが着ていた舞台衣装は、私が大須で着ていたスーツだったんです!!
 私がね、二郎とね...丸井で月賦で作った舞台衣装とエナメル靴だったんです!』

『えっ!...まさか!??』

襟と袖口に、金モールをあしらった あの"白いスーツの舞台衣装"。
大須の席亭が いい香りがしたという あのスーツは『S』が買ったものであった。

用意周到なきよしは、きっと たけしにこう言ったに違いない。
『衣装なら、ちゃんと イイやつあるから!任せてよ!』

―――― こうして、ツービートのたけしときよしが大須演芸場にやって来るのである。
季節は春。
あの、なんともいえない いい香りと共に。

《参考文献》
『幸せだったかな ビートたけし伝』(著・井上雅義)
『相方』(ビートきよし)
『コマネチ』(ビートたけし編)
lma_box/page.php?k=s_hakase

以上。

そして現在、上記原稿の著者、柳田光司氏は現在、出版企画の構想があります。 気概ある編集者は、是非、担当編集:原カントくん(@harakantokukett)までご連絡をください。

以下、柳田さんの新作の構想です。

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今回は、出版企画です。

●書名タイトル  『島田紳助、漫才の教科書伝』

●ジャンル 単行本。国内ノンフィクション

●掲載誌紙名「水道橋博士のメルマ旬報」より大幅加筆(書き下ろし)

●原稿完成 「未」

●著者   柳田光司

●著者紹介 (上段に記載)

●キャッチフレーズ
漫才をビジネスに変えた男
『島田紳助』とは、どんな笑芸人だったのか!?

●内容

2011年8月23日。
タレントの島田紳助氏が芸能活動を引退することを発表した。
理由は、暴力団関係者と付き合いがあったため...というもの。

芸能界を震撼させた緊急会見から、まもなく5年。
強固だった岩石が、雨風にさらされ土になり砂になり散っていくが如く
『島田紳助』という稀代の笑芸人は、風化しつつあります。

なぜ?人気絶頂であった島田紳助は、
数億円の年収を捨ててまで、テレビ司会業に別れを告げたのか?
いかにして紳助は、『島田紳助という商品』を研究開発し、
市場へ流通させ、"笑い"を"ビジネス"へ変換させ、成功し、廃業したのか?

その謎を紐解く一冊の大学ノート。
表紙の書かれたタイトルは『島田紳助、漫才の教科書』

ベストセラー『火花』を超える『禁断の火薬庫』が、まもなく爆発する!

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【目次&パッと読み検索!】

第1章 1980年4月1日

    松田聖子がレコードデビューした夜、全国ネットされたスペシャル番組。
    『THE MANZAI』をめぐる青春群像の真実。


第2章 1973年1月25日

    WBA世界フライ級王座を5度防衛した大場政夫が死去。
    この日を境に、ニッポンの娯楽は変動し始める。


第3章 1974年3月24日

    18歳の誕生日。島田紳助は周囲の反対を押し切り内弟子修行へ。
    その頃、名古屋大須演芸場にやってきた遅れてきた青年が「たけし」だった。


第4章 1974年10月14日

    長嶋茂雄が引退したこの日。
    虎視眈々と天下を狙う"名もなき若者たち"の心は晴れなかった。
    島田紳助も例外ではなかった。


第5章 1975年6月24日

    同期芸人の活躍を尻目に、内弟子修行を続ける島田紳助。
    この日も、紳助はなんば花月の舞台袖に立っていた。
    やりきれない気持ちを隠しきれない眼光鋭い若者にある男が声をかける。


第6章 1975年12月31日

    1年9か月におよぶ内弟子修行の最終日。
    あと数時間すれば、やっと京都の実家へ帰ることができる。
    囚人のように1日ずつ×印で消したカレンダー。
    坂の上から見える奈良県生駒の夜景。
    だが、その後 紳助がとった行動は"漫才師らしからぬ"非常識なものだった。


第7章 1976年7月14日

    京都。夏の風物詩「祇園祭の宵山」
    この日、紳助はひとりの女性と出逢う。
    同期芸人「さんま」と京都八瀬遊園プールで余興をしていたのも...この夏。
    島田紳助20歳。少し遅い青春を満喫しはじめる。


第8章 1977年3月24日

    高校卒業時、「大学へ行ったつもりで...」と芸界入りをした紳助。
    この日、紳助は21歳の誕生日を迎えた。
    ようやく巡り合った三番目の相方「松本竜介」との出会い。
    紳助は書き溜めた「漫才の教科書」をもとに理想の漫才を追求しはじめる。


第9章 1978年3月19日

    夢にまでみた「NHK上方漫才コンクール」に予選突破するものの...
    3位入賞に終わり...舞台上で花束を蹴り上げ審査員に悪態をつく紳助。
    気乗りしないまま、東京大会の入賞コンビとの合同大会へ。
    21歳の新鋭コンビ「紳助・竜介」に声をかけてきた小柄な漫才師。
    それが「ビートたけし」であった。


第10章 1978年4月6日

    コンビ結成9か月。次への自己プロデュースを考えていた頃。
    京都勤労会館で行われた「東京ヴォードビルショー」を観劇。
    笑芸人「島田紳助」にとって忘れらない日となる。


第11章 1978年6月17日

    ラジオ大阪開局20周年イベントに参加。
    その後の芸能活動の道しるべとなる第2の師匠「上岡龍太郎」と遭遇。
    上方漫才の生き字引とでもいうべき参謀を得た「紳助・竜介」は、
    ここから1年以上かけながら、漫才ネタを構築。
    「漫才の教科書」に書かれた文字を、客前で立体化していく。


第12章 1979年7月16日

    天王寺アポロホール。ABCラジオ「東西お笑い寄席」の収録。
    1年以上かけて作られた自信ネタ「青春の叫び!」の一部を披露。
    紳助の「自信」が「確信」へと変わりはじめていくが...。
    またもや、紳助がとった行動は"漫才師らしからぬ"非常識なものだった。


第13章 1979年10月25日

    MANZAIブームが来るおよそ4ヶ月前。
    関西漫才界を牽引していた漫才コンビ「Wヤング」を襲った悲劇。
    この日を境に、これまで君臨していた関西の漫才勢力図は崩壊。
    さまざまな笑芸人が翻弄されていく中...新しい世代が仕掛けはじめる。


第14章 1980年1月9日

    大阪なんば高島屋ローズホール。
    フジテレビ『THE MANZAI』の前哨戦とでもいうべき伝説のローカル戦。
    紳助はここで、まさかの人物と同じ舞台に上がることになる。


第15章 2005年12月25日

    「紳助・竜介」がコンビ解散してから20年後。
    この日、M-1グランプリ五代目王者に輝いたのは「ブラックマヨネーズ」
    本番終了後、紳助が遺した"メッセージ"とは...。


最終章 1972年2月1日

    いつの時代も、歴史の勝者のみが「歴史」を改ざんしていく。
    もちろん、「笑芸界の世界」でも例外ではない。

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●読者層・地域性 40代~50代の男性ビジネスマン。
         そして、マイノリティ感覚に長けた20代~30代の男女。

●パブリシティ  全国各地のAM&FMのラジオ番組。
         それに伴い、全国各地の書店やレコード店などで
         無料(場合により有料)トークイベントを地道に展開。

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