『水道橋博士のメルマ旬報』過去の傑作選シリーズ 川野将一「ラジオブロス」~岡田有希子~

 芸人・水道橋博士が編集長を務める、たぶん日本最大のメールマガジン『水道橋博士のメルマ旬報』。  過去の傑作選企画として、2016年4月『水道橋博士のメルマ旬報』Vol83収録。川野将一『ラジオブロス』の岡田有希子さんについて書かれた原稿をお届けします。(編集/原カントくん)

以下、『水道橋博士のメルマ旬報』Vol83 (2016年4月10日発行)より一部抜粋〜

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Listen.58 『 岡田有希子の夜遊びしナイト! 』

( ニッポン放送 1985年10月13日~1986年4月6日 )


「今日は4月8日ということで、皆さん、何の日か知ってますかー?」

その夜、AKB48劇場で開催された「高橋みなみ 卒業公演」。
MCタイムで司会役を担っていた峯岸みなみは客席にマイクを受けた。
答えは、25回目となる高橋みなみの誕生日。
東京・秋葉原においてはそれが絶対的に正しい。

ただ、その昼間、12時15分、
東京・四谷三丁目の交差点で黙祷を捧げた人達にとっては、4月8日は、30回目を迎えた岡田有希子の命日である。
筆者も、高さ20メートルの高さを再確認し現場で手を合わせてきた。

3年かけて頂点に駆け上がったトップアイドルが自ら身を投げ人生を終わらせた日と、
日本のアイドル史上最大のグループを10年間束ねてきた初代総監督の最後の公演日。
AKB48からの卒業という新たな人生の門出を自分の誕生日に行うこと。
重なった偶然から4月8日はアイドルの歴史において特別な日になった。

突然人生を終わらせる理由は分からなくても、突然ラジオ番組が終わる理由には決まったパターンがある。

hide「それではまた来週・・・hideでした」

1998年5月2日放送の『hideのオールナイトニッポンR』(ニッポン放送)。
いつも通りの決まった挨拶で朝5時に番組を締めくくったhideは、その4時間後、午前8時52分、自宅の部屋で亡くなった。
事前収録だったそのオンエアを本人が聴いていたかどうかは定かではない。
必然的に「それではまた来週」と挨拶したその放送がそのまま最終回となった。

有希子「さぁ今日から、有希子と一緒に、しないとナイト、しようね!」

1985年10月13日にスタートしたニッポン放送のラジオ番組
『岡田有希子の夜遊びしナイト!』。
サンミュージックがもっていたその枠は途中から、同事務所の後輩である、岡谷章子、水谷麻里を迎え、『有希子・章子・麻里の夜遊びしナイト!』に変更され、
1986年4月6日の放送が最終回となっている。
岡田有希子が亡くなったのがその2日後、1986年4月8日だ。

岡田有希子の場合も略歴の年表だけをみると、そのラジオ番組の終了は突然の死によるものだったと思われるほうが自然だろう。
だが、そうじゃないことに、僕は30年間ひっかかっていたのである。

「♪あおげばとうとし~ わがしの~おん~」

1986年4月6日放送のオープニング。
3人で「仰げば尊し」を歌い上げた後にタイトルがコールされ、「『夜遊びしナイト!』卒業式ということで明るく楽しく有終の美を飾りたいと思います!」。

そう、『夜遊びしナイト!』の最終回は、しっかりと"最終回"として放送されていたのである。

当時、その放送を聴いていた筆者、卓球部に所属していた静岡の中学3生は、岡田有希子自殺のニュースに
ショックを受けながらも、そのプロフェッショナルな律儀ぶりに感心した。
彼女は、レギュラーのラジオ番組の最終回を待ってから、自ら死を遂げたと思ったのだ。
そして、当時から先走って考えがちな、卓球も前陣速攻型だった僕は思った。
だったら、もし、ラジオが続いていたら、彼女は死ななかったんじゃないかと。
そう、恨むべきは、ニッポン放送であると!

1983年10月、彼女のラジオDJのデビューは歌手デビューよりも早かった。
事務所先輩の松田聖子のDJデビューもそうであったように、1970年代から続くアイドルの"三人娘"幻想は80年代に入ってもラジオでは色濃く続き、年齢、キャリア、声質のバランスから、サンミュージック内では様々な"アイドルDJトリオ"が編成された。

一緒に相澤秀禎社長の家に住んでいた滝里美、そして川久保仁美の3人で担当した、
名古屋から上京直後の1983年10月~1984年3月に、MBSラジオで放送された
『サトミ・ヒトミ・ユキコの何かいいことないか 仔猫ちゃん』。
同じく、同時期にデビューに向けて歌やダンスレッスンをこなしていた、松本奈美子、青木小緒里と3人で行ったのが、1984年4月~1985年10月に東海ラジオで放送された『奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ』。普段は好きな男性アイドルの話などもしていた普通の女の子だった彼女たち。
ゲストが来るとその馴れ馴れしさによく怒られていたというのもどこか微笑ましい。

初めて1人でマイクに向かうようになったのは、1984年10月~1985年10月放送の『岡田有希子ちょっとおあずけ』(ニッポン放送)だった。

有希子「『ベストキッド』っていう映画を観たんですけど、いつもケンカで負けている弱い男の子が、空手をやる老人に会ってね、空手を教えてもらってトーナメントに出るんですけど、いつも殴られていた子に試合で勝ってしまうという...本当に感動的な映画でした!」

3人分しゃべらなければいけないという義務でも感じていたのだろうか。
まだ観ていないファンから怒られそうなほどの、ネタバレ上等のしゃべり過ぎ。
だが、時に走り過ぎたトークは、構成作家の書いた台本の言葉ではないことの証明でもあった。
1枚でも多くリスナーの便りを伝えるために、コーナーを設けなかったのも彼女の希望だったという。

有希子「では、お便りのお願いです、今日は『水戸黄門』風に挑戦してみたいと思います。
    えーい、しずまれしずまれ!この紋所が目に入らぬか!ここにおわすお方をどなたと心得る! 恐れ多くも岡田有希子にあらせられるぞ!皆の者、控えおろう。今まで皆の者が重ねてきた悪事の数々、ちょうど学年も変わることゆえ、ここらで思い切って白状してはどうだ! 宛先は、お聞きの放送局か、郵便番号100 千代田区有楽町ニッポン放送「岡田有希子ちょっとおあずけ」の係じゃ!」

もしかしたら、歌手活動が本格化する前の、ラジオが仕事の中心だった
この頃までが、彼女が本当に"仕事が楽しかった"時代だったのかもしれない。

1984年4月、「ファースト・デイト」でのレコードデビューは、「松田聖子ドキュメントファイル」の大特集が組まれた「ラジオマガジン」1984年5月号でも「赤丸新人コーナー」に掲載。その年の新人賞を総ナメにしていくが、気持ちは複雑だった。

有希子「吉川晃司さんに申し訳ない。荻野目洋子ちゃんにわるい...」

レコード大賞新人賞を受賞した時に涙した真の理由は、"嬉しさ"ではなくバックステージで身内にもらしたというこの言葉に表れている。
確かに、竹内まりやの作詞作曲作品は秀作だったが、売上枚数では劣っていた。
「ポスト聖子」と呼ばれる彼女は、はっきりと"推されている"ことを自覚した。

だが、岡田有希子は"推し"に見合う積極性に欠けていた。
死後に出版された『愛をください』の中の母親の手記には、マネージャーから注意を受けた具体的な一例が書かれている。

「テレビに出ているとき、松田聖子などは自分が映ろうと思ってサッと前に出る。
 ところが有希子は、先輩を立てて後ろへ下がってしまう。ふだんは先輩を立てなきゃいけないけど、テレビに出たら同格だから、先輩も後輩もない。パッと写るところへ行きなさい。」

日課となっている相澤初代社長との毎朝のマラソンでさえ、岡田有希子はただの一度も、一歩さえも、初代社長の前に出たことが無かったという。

20位、14位、7位、4位、5位、7位、5位...。
事務所としてはどうしても欲しい1位のタイトル。
8枚目の勝負作は作曲を坂本龍一、作詞を先輩で憧れで目標の松田聖子に依頼した。
『夜遊びしナイト!』には聖子からのボイスメッセージが贈られた。

聖子「岡田有希子ちゃんの詞っていうことで、すごく最初迷ったんですけども、今回挑戦してみたのが『くちびるNetwork』という詞なんですけども、可愛い感じがいいのかなって思ってたら、割りと激しい感じで書いてほしいって言われて書いたんだけど、でも、彼女が歌うと全然そんなふうに聞こえないしね」

「Kissが欲しいの?」「私を抱きたい?」「抱いてほしいの」...、
歌詞だけ読んだ時に感じる過激さは、歌声とメロディで中和され、代わりに、これまで岡田有希子が観せてこなかった18歳の"艶"が表現された。
1986年1月、「くちびるNetwork」は1位を獲得し、それが最後のシングルとなった。

この頃の全ての仕事が、岡田有希子の"遺作"となっていく。
曲はまだ、後世にも伝えられているから幸せかもしれない。
しかし、主演を務めた最後のドラマは、ソフト化も再放送もなく完全に封印された。
『夜遊びしナイト!』の2回目、1985年10月20日放送で、岡田有希子はそのTBSのドラマについて、とくとくとくとくと、やはりしゃべり過ぎた。

有希子「最近、有希子はドラマを中心にお仕事してますけど、初めての連続ドラマ『禁じられたマリコ』の撮影に入ったんです。実際に11月5日から放送になるんですけど、なんとわたしがポルターガイスト、早くいっちゃえば超能力みたいなものを持った女の子と
いうことでいろんな事件が起こるんですけど、まぁ、いろいろ複雑な環境でしたね。小さい頃、目の前で実のお父さんが殺されちゃって、そして今は、やさしいお父さんとお母さんに育てられているんですけど、だんだん秘密が暴かれていくと、その度になんかこう、いろんなものが壊れたり割れたり、家がパニック状態になってっちゃうという、ちょっとね、まぁ、現実にはありそうもないんですけど...」

「現実にはありそうもないんですけど」という丁寧なお断りが実に彼女らしい。
ネタバレは大概だが、興奮して話していることにその現場の楽しさが伝わってくる。

そのドラマ最終回、吹雪の中で消息を絶ったと思われていた、
岡田有希子演じるマリコは、みんなに名前を呼ばれてこの世に甦った。

ナレーション「マリコは復活した。奇跡だった。マリコは今、新たに甦ったのだ」

しかし、マリコを演じた岡田有希子は、即死だった。
ファンがコンクリートに頬をこすりつけ「ユッコー!」と叫んだところで甦ることはなかった。
『禁じられたマリコ』の台本は彼女の棺に入れられ、峰岸徹に肩を組まれた、
ドラマ収録現場でのオフショットが、追悼を特集した雑誌の表紙にも使われた。

デビュー時のイマジネーションアンケートで皮肉にも「FRIDAY」に対し「載ってみたい!」と答えていた岡田有希子。
惨たらしい死体の掲載はその一誌には限らず、文藝春秋の写真週刊誌、「Emma(エンマ)」1986年5月10日号では、30ページの総力特集が組まれた。
2号連続で特集が組まれた当雑誌ほか、「愛をください」の母親の手記、上之郷利昭著「岡田有希子はなぜ死んだか」、吉岡忍著「死よりも遠くへ」、前田忠明「アイドルと病」等をもとに、今一度、悲劇の状況を振り返っておきたい。

命日の死の現場を「ここ、何かあったの?」と通り過ぎていった人のためにも、残酷な描写にオブラートはかけず、当時僕たちが抱いたショッキングな想いを伝えたい。
30年目の現場で僕はそれを本人にことわってきた。「いいよ」とは言われていないが、
もし「ダメ」なら、他の人に迷惑がかからない方法で祟ってくださいとお願いをしてきた。

1986年4月8日、午前9時、東京・南青山6丁目「ロータリーマンション」の住人がガス漏れの臭いに気づく。
管理人が臭いの元を探ると、402号室の「佐藤佳代」宅と判明する。
呼んでも反応がないため警察に通報。ドアチェーンを切って入った部屋の押し入れの下段に、左手首を切ってうずくまる彼女、芸名「岡田有希子」がいた。
岡田有希子は、4日前に相澤初代社長宅を出て1人暮らしを始めたばかりだった。
救急車が呼ばれ、管理人は事務所に連絡。福田時雄常務が北青山病院に駆け付ける。
ちなみに相澤初代社長は、その時間、歯医者に行っていたことを一生悔やんでいた。

「後遺症はないので大丈夫です。もう連れて帰ってもいいですよ」。
意識が戻り外科の縫合手術を終え、入院の必要なしと判断された有希子を、福田はタクシーで四谷三丁目の事務所「サンミュージック」へと連れ戻す。
号泣していた彼女はシクシク泣きに代わり落ち着きを取り戻しているようにも見えたという。
社長室に連れて入った福田は、本人の動揺を鎮めるために飲み物を勧めた。
彼女の好みを知る社長秘書が代わりに答えた。「ストロベリージュースがいいわよね」。

そんな頃、歯医者の治療を終えて事務所に向かう相澤から自動車電話が来る。
さすがに本人の前では話せないと、福田は社長室を出て隣室の受話器を取る。
福田がいなくなった社長室で、有希子は秘書に「ちょっと、ティッシュを...」と言い部屋を出る。
しかし、有希子は戻らず、秘書は慌てて女性付き人の山崎の元へ走る。
「有希子がいませんっ!」「なにっ!」。
12時10分過ぎ、そのまま彼女は屋上へと駆け上がり、飛び降りた。
社長室のテーブルに残された、飲み手を失ったストロベリージュース。
追悼の現場に多種多様なストロベリージュースが供えられている理由はこれにある。

骨は砕け、内臓は破裂し、頭蓋骨が割れ、破損した脳が散乱した。
「ガスによる自殺未遂」の報を受けた段階でサンミュージックへと集まった、
記者やカメラマンの中には、その悲劇の瞬間を目撃した人もいた。
あまりにセンセーショナルな現場の写真を撮ったカメラマンには、遠目からは黒いゴミ袋が落ちたと勘違いし、少しそばに寄ってからは、「ほら、やっぱりゴミ袋ですよ。ゴミのオレンジがくだけちゃってるもの」と、散乱した脳をそれとは気づかなかった残酷なエピソードもある。

彼女を自ら死に向かわせた原因は何だったのか?

死の2日前、事前収録の『夜遊びしナイト!』最終回が放送された日は名古屋でコンサートがあり、岡田有希子は久しぶりに実家へと戻ってきた。
彼女の上京物語は『夜遊びしナイト!』でも度々語られてきた。

有希子「有希子が東京へ行く時、本当にみんなに反対されました。『スター誕生』を受けたんですけど、予選大会の時にお父さんお母さんみんなに反対されてね、やっぱり16歳の子を東京に行かすなんて親も心配だったと思うんですけど、とっても反対しまして、私もその気持ちがわからないでもなかったんですけど、その時は、もう小さい頃からずっと歌手に憧れてて、やっと掴んだチャンスっていうのは強く思いました。だから今このチャンスを逃してしまったら絶対に後悔するんじゃないかと思って、それを押しきちゃってね、東京に出てきてしまいましたけど、今はやっぱり悪いことしたなっていう気持ちは強いですね。その時はひたすら歌手になりたいっていうだけだったんですけど、ほんとに家族にいっぱい迷惑かけてますしね、でも、やっぱり歌手になったことは後悔してないし、歌手になったおかげでこうして皆さんと会えたり、お話を聞かせてもらったりするわけですからね、その点では今は幸せだなって思ってるんですけど...」

ファンには有名な、反対する親に約束された東京に行くための三つの条件。
「学年で1番の成績をとる」
「中部地区の模擬試験で5番以内に入る」
「第一志望の高校に合格する」
岡田有希子はその期間、何よりも好きな歌番組さえ観ることを我慢して机に向かい、
見事、全ての条件をクリアした。

そんな苦労を経て入った"芸能界"を有希子は実家に帰る度に報告していた。
だが、いつもは真っ先に自分の出た番組を見せながらあれこれ話をするのが常だったが、その日に限ってはそれをしなかったことに家族は違和感を感じたという。

その翌日となる死の前日はオフで、家族にそう伝えていたように、朝の新幹線で東京に戻り、渋谷パンテオンに『ロッキー4/炎の友情』の試写へと出かけている。
上映後、映画会社に務めるファンの青年が話しかけようとすると、有希子は東急文化会館の公衆電話から電話をかけ、10分以上誰かと話していたという。
夜10時頃に自室に戻るとマネージャーから翌日予定されていた、『家出令嬢の課外授業』のドラマ撮影が延期された連絡が入る。
電話を受けたその声にとくにマネージャーは何も感じなかったという。

夜11時前になると、有希子は『禁じられたマリコ』で共演した女優に電話した。
いつもと変わらない様子で、夜11時半前にはその女優の方から電話をかけた。だが出ない。
それからすぐ有希子の方からコールバックがあり「近くのスタイリストのところに遊びに行ってきた」と言う。その声は暗く、後に遊びに行った事実はなかったことが判明した。
彼女を動揺させる何かがあったとすれば、そのおよそ30分間の出来事だといわれている。

そして死の6時間前、朝5時20分頃、世田谷成城から、黒いスカート姿にサングラスをかけた岡田有希子を乗せたというタクシー運転手の証言もある。
「八重洲まで行ってもらえますか・・・」と、彼女にか細い声で言われたという。
運転手が好きな斉藤由貴のカセットをカーステレオに入れると、「おじさん、この人が好きなんですか?」と言われ、そこで彼女に気づいたという。「あれ、あんた、岡田有希子さん?」「はい・・・」。蚊の泣くような声だったという。
「ここで降ります・・・」と言われたのは、東京駅を目前にした工事現場。
「変なとことで降りるな。危険な場所なのに・・・」と思いながらも彼女を降ろした。
名古屋に帰ろうとしていたのか。それとも、最初はここで早まったことを考えたのか。

そこから、有希子は自分の部屋に戻り、ガス栓をひねった。
前年、岡田有希子は消防庁のポスターのモデルに選ばれていた。
「怖いのは"消したつもり"と"消えたはず"」。
マンション住人が臭いに気付き、部屋に消防署員が入ったその時間は、
たまたまラジオ日本では彼女の声が流れていた。

『押阪忍のさわやかラジオ』。
3月18日に収録された岡田有希子がゲスト出演した放送で、彼女はパーソナリティの押阪から好きな男性のタイプを聞かれ、黙り込んでしまったという。

後日見つかった遺書代わりとも言えるノートには、『禁じられたマリコ』で共演した俳優、峰岸徹の名前が書かれていた。
峰岸は「一切関係ない」ことを貫き、有希子の母親も、自分に峰岸のことを一杯しゃべっていてくれたからこそ、2人にその関係は無かったはずだと書き残している。
マスコミでは他の俳優の名前も上がっていたが、どれも定かではなく、妊娠も疑われたものの、司法解剖はされなかったためその真実も分かっていない。
ただ、それに対しても母親は「こんなことまで書きたくはないのですが...」と、
死の10日ほど前に生理用品を買っていたことを明らかにし、有希子の妊娠を否定している。

飛び降りた真相がそのまま明らかにされないのと引き替えに、"ウェルテル効果"から追随する少年少女の自殺が増えていることは確かだった。
4月28日までに73件。4月17日から18日にかけては一晩で8人の少年少女が命を失った。
国会でも青少年問題として議題に取り上げられ、逆に『ニュースステーション』(テレ朝系)
などは、悪影響を考えて、一連の「ユッコ・シンドローム」の報道を止めている。

岡田有希子の死を起点に、毎年命日に追悼現場で手を合わせている、
作家でアイドル評論家の中森明夫は小説『オシャレ泥棒』を発表し、劇作家・評論家の山崎哲は舞台『1/2の少女 岡田有希子投身事件』を本多劇場で上演し、
ライムスターの宇多丸は、アルバム『HEAT ISLAND』に収録された、
「LIFE GOES ON」で岡田有希子の死を歌っている。

   ま・そりゃそうと また別のエピソード あの悲劇をリロード
   1986 まだ18の少女 手にした新人賞も
  浴びた脚光 化粧も衣装も 救えなかった彼女の一生を
   ただ4月の晴れた日の正午 路上に残された むごい証拠
   文字通り「墜ちた偶像」襲う騒々しいゴシップ報道
   「強縮です!」という火事場ドロボー   ・・・

前田敦子の過呼吸や峰岸みなみの坊主謝罪、AKB48関連で事件が起こる度に、『ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』(TBSラジオ)で声を荒げ、運営に向けてメンタルケアを訴えていた背景には、間違いなく岡田有希子の死があった。

ちなみに歌の中で"「強縮です!」という火事ドロボー"と呼ばれているのは、ズカズカとマイクを持ってビルに入っていった、芸能レポーター・梨元勝のことを指す。

1986年4月8日11時50分。警視庁記者クラブから「歌手の岡田有希子が南青山の自室で手首を切り、ガス栓をひねって自殺未遂」
という第一報を日本テレビで聞いた梨元は、急いでサンミュージックへと向かった。
そこにはシートが被せられた女性の死体が横たわっていた。

梨元「えー、いま現在、12時35分になります! 僕はいま、この四谷の交差点のところにあるサンミュージックのビルの前にいます。いま着いたんですけど、状況が詳しくわかりません。どうもマネージャーの人が飛び降り自殺したという状況のようです。いま、ディレクターが確認してますので・・・」

うつ伏せになっていた女性の死体の正体にすぐには気づかれず、
梨元は有希子のガス自殺未遂の責任を感じたマネージャーと勘違いをしていた。
直後は「誰だか知らないけどウチのビルを使って迷惑な話だよな」という社員さえもいたという。

梨元「えーとですね、再度、もう一度ここへ来て。ですから病院から戻ってきて、飛び降りたということです。岡田有希子本人ということです。すみません。先程のマネージャーというのは間違いでありまして、本人ということですが・・・」

その報道は、天下の梨元にして、スタッフから
「なんでもっと驚きがないの?」とテレビマンとしての注意を受けたという。
1978年12月の田宮二郎の猟銃自殺、1983年6月の沖雅也の飛び降り自殺...。
梨元が芸能人の自殺を取材するのは、岡田有希子で3人目だった。
しかし、落ち着いてみえた理由は"慣れ"とは真逆の"本当の驚き"だったという。

「聖書より役に立つ、コトバによる自殺装置。」

帯にそんなコピーが記された1993年出版の『完全自殺マニュアル』。
「世界は絶対に終わらない。本当に世界を終わらせたかったら、あとはもう"あのこと"をやってしまうしかないんだ」
「もうただ生きてることに大した意味なんてない」「自殺はとてもポジティブな行為」
などと書かれた自殺のハウツー本を、僕は今まで2冊買って2冊とも捨てている。
3冊目の購入となる今回、もう一度紐解いてみると、10代と20代女性においてのみ、1986年からは飛び降り自殺が首吊りの件数を上回っている。

「なによりも飛び下りには他のあらゆる自殺手段につきまとう暗いイメージがない。イメージを塗り替えたのは『佐藤佳代』というひとりの少女だった。神聖なイメージを与え、続々と後追い自殺を生んだ。落ちたんじゃなく飛んだんだという神話も生まれた。」

彼女の自殺を美化したこの本を僕はまた捨てる。
"売る"ではなく"捨てる"だ。
1冊でも多くこのクソバカな悪書を世界から消し去るために。

みんなが、「自死」と言わずに「自殺」という理由。それは無意識だとしても「自殺」は「自分を殺める」悪い行為だと認めているんだと思う。
人を殺めてはいけないように、自分も殺めてはいけないんだと思う。
大切な人を守るためでもあっても他人を殺めたら罰せられるように、なにがあっても自分を殺めてはいけない、自殺はいけないことなんだと改めて思う。

岡有希子の自殺と関係しているのかどうかは不明ながら、後年、担当マネージャーがやはり自らを死に追いやる事件があった。
だが30年も経つと、自殺をせずとも多くの関係者がすでに鬼籍に入っている。
峰岸徹は2008年10月、梨元勝は2010年8月、相澤初代社長は2013年5月だった。

相澤秀禎の社長室に飾られていたタレントの写真は、生涯において、岡田有希子、ただひとりだった。
そのポートレイトには、死の3日前に書かれた、「to のりっぺくんへ」という有希子のサインが記されている。
「のりっぺ」とは、1人暮らしを始める岡田有希子と入れ代わりに相澤初代社長の家に住むようになった後輩のアイドル、酒井法子のことだ。
法子が席を外したときの会話を相澤初代社長はずっと覚えていた。

有希子「私はこのままやっていけるかしら?」
相澤「何言ってるんだ。君はサンミュージックの柱になるんじゃないか」
有希子「だってあの子がいるじゃないですか」

"あの子"酒井法子が、2009年8月、覚せい剤を所持していた夫の逮捕を受け、任意同行を求められながらも逃走を図ったとき、相澤初代社長は自らの判断で、警察に「捜索願い」を出した。
それは岡田有希子と同じような、最悪の事態を想定しての愛の判断だった。

相澤初代社長が最後に発掘したタレントといわれる、ベッキー。
今年に入ってからの彼女のスキャンダルにおいても、きっと、身体の無事を最優先した処置を行っていただろう。

有希子が寝坊した時は、そんな相澤初代社長がパジャマ姿のままで、車で放送局まで送ったこともあるという、大好きだったラジオの仕事。今回聞き直して、僕は大きな勘違いからニッポン放送を恨んでいたことに気がついた。

死の2日前の1986年4月6日、『夜遊びしナイト!』最終回。

有希子「いよいよ明後日から、月曜ワイド劇場「家出少女」という新しいドラマの撮影が
始まります。たぶん放送は6月か7月ぐらいになると思います。きっと楽しい番組になるといいなと思いますので、皆さんぜーったいに観てください!」

有希子「5月中旬発売予定の私、岡田有希子の新曲です。
また応援してくださいね。「花のイマージュ」です!」

有希子「サンミュージックがお送りした、夜遊びしナイト。お別れは寂しいですけど、何にでもスタートがあれば必ずゴールがありますよね。この番組もめでたく今日がゴール。ということでみんなそれぞれ次の目標に向かってがんばりたいと思います!」

相澤初代社長や学校の先生や親への感謝とも受け取れる、「仰げば尊し」の合唱のオープニングから始まった最終回だが、以降の時間、岡田有希子は、全国のリスナーに「未来」しか語っていなかった。
その日行われた名古屋のライブのMCでは、泳ぎは下手ながらも、スキューバダイビングに挑戦してみたいことを笑顔で話していたという。
彼女の後を追った少年少女たちはその事実を知っていただろうか。

2013年放送のNHK連続テレビ小説『あまちゃん』。
話の中で幾度か流された、1980年代のアイドル史を伝える実際の歌番組の映像。
そのなかで、大ヒットを収めながらも取り上げられなかったアイドルが2人いる。
1人は岡田有希子。センセーショナルな死を遂げた彼女を出してしまうと、ストーリーにおいてまた違う大きな意味を持ってしまうからだろう。
そしてもう1人は、かつてのアイドル「天野春子」を演じていた小泉今日子だ。

1986年4月、小泉今日子は、くしくも岡田有希子の死と同じタイミングで、現役女性アイドルで初めてとなる『オールナイトニッポン』1部のマイクの前に座っている。
時に事務所には無断で刈り上げのショートカットにしてしまうような、奔放に生きた"なんてったってアイドル"は、「SWITCH」の連載エッセーをまとめた、2010年出版の『原宿百景』で、岡田有希子の名前を出すことなく、「彼女はどうだったんだろう?」というタイトルで有希子のことを綴っている。

              ×   ×   ×   ×

    彼女はひどく近眼で、仕事じゃない時はいつも牛乳瓶の底みたいな分厚い眼鏡を
   かけていた。レンズを通して小さくなった目がなんとも可愛かった。

              ×   ×   ×   ×

    歌を歌う時の彼女はいつもその極上の笑顔でみんなに夢を与えていた。
   彼女に魅了されたファンの人達はたくさんいた。彼女はスターの道を確実に
   歩き始めていた。それなのに、ある日突然、彼女は空を飛んでしまったのだ。
   残念なことに彼女は空の飛び方を知らなかった。

              ×   ×   ×   ×

    夢の中に彼女が現れた。やさしくて儚気な笑顔のままで。
   「どうしたの?」私は言った。「ううん。なんでもないの。ただ少し疲れちゃって。
   これが私の寿命だったんだと思うの」静かに彼女が言った。
    私の夢の中で、彼女は穏やかに全てを許していた。「そうなんだ。だったらいいけど、
   でも寂しいよ」と私は言った。うふふと恥ずかしそうに笑った後「ありがとう。
   嬉しいです。」と彼女は言った。その声も笑顔と同じでやっぱり可愛かった。

              ×   ×   ×   ×

事務所後輩のアイドルグループ"さんみゅ~"が歌う「くちびるNetwork」、坂本龍一プロデュースで中谷美紀が作詞しカバーした「クロニック・ラブ」など、彼女の歌はその後、多くの女性アーティストに歌い継がれている。
だが、それらを聴くほどに募る、岡田有希子本人の歌声。
しかし、大手メディアが、自殺したアイドルの曲を率先してかけることは無い。

そんななか、福岡のコミュニティFMで、毎週、岡田有希子の曲をかけることを決まりにしているラジオ番組があることを知る。
スターコーンFMの「ほっと!ネットラジオ」。その木曜日の放送。パーソナリィの名前は、田中久美。

1983年8月、岡田有希子が転入した、堀越学園芸能コースD組の卒業アルバム。
石野陽子、倉沢敦美、長山洋子、高部知子、南野陽子、宮崎万純、永瀬正敏らに混じって
載っているのが、佐藤佳代、芸名・岡田有希子の写真。そして、その左下に「田中久美」がいる。

1985年2月出版の岡田有希子のタレント本「瞳はヒミツ色 あなただけにこの想い」。
その中に記された1984年10月4日の直筆の日記に彼女の名前が登場する。

「今日からLFの『ちょっとおあずけ』が始まった。一人でおしゃべりするのは初めてだ。
やっぱりちょっと緊張しちゃったみたいで、何回もつっかえちゃった。でも、久美がゲストだったから、よかった。」

岡田有希子の上京と時を同じく、1983年8月、第8回ホリプロスカウトキャラバンで、10万人の中から優勝を獲得し、やはり有希子と同じ春、1984年3月にレコードデビューした田中久美。
岡田有希子は一緒に頑張ろうねと手を握るように、田中久美と大親友になった。

だが、大親友であるがゆえに生まれた、大きな苦しみ。
芸能界の生存競争に、岡田有希子は勝ち、田中久美は負けた。
ヒット曲に恵まれなった田中久美は、堀越高校卒業と同時に芸能界を引退。
有希子を残し、ひとり福岡に帰ってしまった。

「久美ちゃん、家に帰ったかなぁ・・・」

田中久美の帰郷に合わせるように有希子は1人暮らしを始め、その時を迎えた。
岡田有希子が命を絶ったのは、親友・田中久美と離れて一週間足らずのことだった。

一方、田中久美は地元福岡で19歳にして早々と結婚。3人の子どもを持ち、42歳でおばあちゃんにもなった。

芸能界で成功を収めながらも、自ら命を亡くした、岡田有希子。
芸能界で失敗しながらも、沢山の新しい命を宿した、田中久美。

亡くなったからこそ、田中久美は岡田有希子のことを一時も忘れられなくなった。
2012年4月8日、田中は、27回忌となる岡田有希子の追悼の現場を訪れた。
そこで目の当たりにしたのは、まだ、ファンの心の中で有希子が生きている姿だった。

医療事務やライブ歌手の仕事をこなしながら、福岡のコミュニティFM、スターコーンFM「ほっと!ネットラジオ」でパーソナリティを務めていた彼女は封印を解き、それから毎週番組で、大親友・岡田有希子の曲を流すようになった。
やがてそのリクエストは、日本全国、海外からも寄せられるようになった。

さらにこの春、2016年4月、東海ラジオの新しいタイムテーブルに懐かしい番組タイトルが載った。
毎週土曜深夜1時から始まる『ドットーレ山口のドキドキラジオ'84』。
東海ラジオが放送する『ドキドキラジオ』とくれば、1984年4月~1985年10月に放送されていた『奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ』である。

だが、新番組のパーソナリティは、イタリア語で"ドットーレ"が意味するとおり、お医者さんの男性。なんと、名古屋出身の岡田有希子ファンお医者さんによるトリビュート番組なのである。岡田有希子というアイドルの存在と歌を、後世に継ぐために始め、番組で流す岡田有希子の歌は、すべてレコードという"84"ならではのこだわりよう。
筆者にはそこまで聴き分ける繊細な耳を持っていないが、確かに針が刻む有希子の歌は無機質なデジタル音と違って温かい。なんてね。

今、確かに、岡田有希子はラジオの中で生きている。
しかもただ、ニコニコと微笑んでいるだけではない。
『ドキドキラジオ'84』の後に始まる番組はアンジュルムだし、radiko.jpプレミアムで全国に耳を澄ませば、土曜の夜だけでも、AKB48、SKE48、モーニング娘。、Perfume、9nine...とアイドル番組がしのぎを削っている。
さらに、岡田有希子の命日が誕生日の高橋みなみにしても、この春からは、TOKYO FMで平日昼間のワイド番組『これから、何する?』のパーソナリティーを務めている。

今回、国会図書館で1984年~1986年頃の様々な芸能文化誌を紐解いたが、そのいくつかには、今と同じ、「アイドル戦国時代」という文字が踊っていた。
アイドルの戦いは今も昔も存在した。そして、ラジオの中でアイドルたちは、現世のライバルだけではなく、昭和から平成まで、時を越えて戦っている。
もちろん、そのなかにおいて、今後、老いることも、スキャンダルも無い、美しさが永遠に補完された、18歳の岡田有希子は絶対的に有利である。

4月8日。
今からおよそ200年前、1820年のその日、
オスマン帝国統治下のミロス島で「ミロのヴィーナス」像が発見された。
その傷ついた身体は世界中からずっと愛されている。
(以上)


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