『マッサン』竹鶴政孝とサントリー鳥井信治郎 日本の"ウイスキーの父"はどっち?
- 『ウイスキーと私』
- 竹鶴 政孝
- NHK出版
- 1,620円(税込)
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11月3日発売の英のウイスキー専門誌「ワールド・ウイスキー・バイブル2015」誌上で、サントリーのウイスキー「山崎シングルモルト・シェリーカスク2013」が、100点中97.5点と世界最高の評価を受けたことが発表されました。
世界でも高い評価を受けるウイスキー山崎を生産している「山崎蒸溜所」は、1924年竣工の日本で初めての蒸溜所。そして同所の初代所長となった人物こそ、NHKの連続テレビ小説『マッサン』のモデルであり、"日本のウイスキーの父"こと竹鶴政孝です。
広島の造り酒屋に生まれた政孝は、大阪高等工業学校(現・大阪大学)の醸造学科を卒業後、洋酒にあこがれを持ち、家業を継がずに、洋酒を製造していた摂津酒造に就職し、社長の阿部喜兵衛からも信頼を受けます。『マッサン流「大人酒の目利き」』(講談社刊)によれば、「当時の国産品は、エチルアルコールをカラメルで着色し、エッセンスフレーバーで香りをつけた粗悪な模造品」だったそうです。
そこで、摂津酒造の阿部社長は「スコットランドに行って本場の技術を学んできてほしい」と政孝を留学させます。しかし、ウイスキーの本場・スコットランドで蒸溜技術を学んだ政孝を待っていたのは、第一次世界大戦の大恐慌。不況のあおりを受けて、摂津酒造ではウイスキー醸造計画の実現は困難になり、政孝は摂津酒造を去ることに。
「技術者としてウイスキーを日本でつくる」という志も、せっかく学んだ技術も生かせる場所がないまま、弱っていた政孝に、ウイスキーづくりを要請したのが、現・サントリーホールディングスの前身・寿屋の鳥井信治郎社長でした。鳥井社長もまた、日本で本格的ウイスキーをつくりたいという思いを持ち、年俸4000円という高給で迎え入れ、ウイスキーづくりの一切を政孝に任せたのです。
当初、政孝は、スコットランドに気候と湿度が近い北海道に蒸溜所を造ろうと考えていましたが、鳥井社長は「工場を皆さんに見てもらえないような商品は、これからは大きくなりまへん。大阪から近いところにどうしても建てたいのや」と言って譲らず、そこで選ばれた場所こそ、山崎(大阪府三島郡)でした。1924年、スコットランドの蒸溜所そのままの工場が完成し、1928年に日本初のウイスキー「サントリー白札」が誕生します。
政孝の自伝である本書『ウイスキーと私』では、当時を振り返り「とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかったことだろうと思う。そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない」と、感謝を表しています。鳥井社長もまた、もう1人の"日本のウイスキーの父"と言ってもいい人物かもしれません。
政孝はのちに考え方の違いから寿屋を退社、1934年、北海道に「余市蒸溜所」を構え「大日本果汁株式会社」、のちのニッカウヰスキーの創業者となります。念願の北海道に移って、何よりも喜んだのは、妻・リタでした。スコットランド生まれのリタは、故郷に風景・気候が似たこの地を愛しました。政孝の留学中に、周囲の反対を押し切って結ばれた2人は仲睦まじいことでも知られ、ドラマのタイトル『マッサン』も、リタが「マサタカサン」と発音しにくく、愛称のように「マッサン」と呼んでいたことに由来します。
「スコットランドでしかできない」と言われたウイスキーを、日本でつくることに成功した政孝。本書では、愛妻・リタの存在はもちろんですが、成功の陰にはサントリーの鳥井社長、摂津酒造の阿部社長はじめ多くの人々の尽力があったことが描かれています。秋の夜長、日本でのウイスキー普及に貢献した先人たちのドラマに想いを馳せつつ、ゆっくりとグラスを傾けてみてはいかがでしょうか。