アイドルから見えてくる日本の女性像、社会像とは?

「ネオ漂泊民」の戦後 アイドル受容と日本人
『「ネオ漂泊民」の戦後 アイドル受容と日本人』
中尾 賢司
花伝社
1,620円(税込)
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「たとえば筆者は三〇代、四〇代の男性が、ナゼ一〇代や二〇代前半の女性歌手に夢中になれるのかが理解できない」

 書籍『「ネオ漂泊民」の戦後』の冒頭でそう語る、著者で音楽ライターの中尾賢司さんは同書において、アイドルという存在を通して日本近代史を振り返り、アイドルが日本の社会のなかで如何なる役割を担い、何を表象していたのかを解き明かしていきます。

 例えば中尾さんは、小説家・江藤淳の『成熟と喪失"母"の崩壊』の考察を通じて、「まるで文化祭の前日を何度も繰り返す学園アニメのように推しメンを変えながら青春の一ページを何度も生きなおす」(同書より)ような形として消費される、現在のアイドルの存在を分析します。

 具体的に少し見てみると、まず中尾さんは『成熟と喪失"母"の崩壊』を、次のようにとらえます。

「『成熟と喪失』の骨子は、江藤にとって『戦後』とはそのまま、古きよき風景が失われることや、『民主化』の名のもとに山の手の中産階級の文化が崩壊していく悲劇のみならず、古きよき農耕社会に紐付けられた女たちが、産業化、近代化のなかで、自分のなかにある『自然』を失う様を捉えたことにある。つまり、子どもを産み、共同体のなかで育てるという役割を担う前近代に位置づけられていた『母』を自らの手で破壊し、『人工化、情報化された女』に変容していく様を、第三の新人の作品を引きながら指摘したのである」

 中尾さんは、この江藤の論考を受け、母が崩壊した以上、女性は「いつまでも『大人』として社会から認証されず、『子ども』を擬態し続けなければならない」(同書より)という事態に陥り、同時に、それは女性にとって「前近代の農耕社会や『家』に紐付けられ、『母』であることを強要される人生よりも残酷で、孤独な生き様」(同書より)なのだと指摘します。

「『若さ』というものがいつまでを期限とする、といったような前近代的人生モデルの通念は、終焉した」

 そしてこうした変遷は社会全体についても言えることであり、前近代的人生モデルの終焉、言い換えれば、いつまでも若さを強いる社会が到来しているからこそ、何度も若さを、青春の一ページを反復し続ける姿勢を受け入れてくれる対象・アイドルに、多くの人が夢中になるのではないかと分析しています。

 アイドルから見えてくる、日本の社会史における女性像、そして日本人像とは一体どのようなものなのでしょうか。アイドルから社会そのものを考察する、注目の一冊となっています。

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