漢詩文の才能がなく、和歌の道へと進む
『伊勢物語』の主人公とされる在原業平について、作家の高樹のぶ子さん(※)に紹介していただきました。
※高樹さんの「高」の字は、正しくは「はしごだか」です。
* * *
在原業平は、祖父が平城(へいぜい)天皇、父がその第一皇子である阿保(あぼ)親王、母は桓武(かんむ)天皇の第八皇女である伊都(いず)内親王という家系に生まれました。血筋では天皇につながっているのですが、父の願い出により、業平は兄らとともに在原姓を賜(たまわ)って臣籍にくだり、皇族ではなくなりました。これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
臣籍降下というシステムが始まったのは、桓武天皇の時代です。天皇の子どもが増えすぎたため、天皇から氏名(うじな)と姓(かばね)を賜る代わりに天皇になる権利は放棄する、という制度が生まれたわけです。
では、なぜ阿保親王は息子たちを臣籍降下させたのでしょうか。それは息子たちを思ってのことだったと私は思います。阿保親王は、父の平城天皇(当時は上皇)が平城還都(かんと)を目指して起こした薬子(くすこ)の変に連座したとされ、大宰府に流される憂き目にあっています。平城天皇は『万葉集』に長けた文人でもありましたから、平城京への愛着があり、都をまた奈良に戻したいという願望があったのでしょう。それで還都を画策したのですが、結果的に敗れ、平安京の都としての地位が確定します。上皇自身も剃髪(ていはつ)し、隠棲(いんせい)を余儀なくされました。権力に盾突いて敗れた家の者は、もはや出世など望まない方がよい。阿保親王はそう考えたのだと思います。
つまり業平は、天皇になる道は断たれていたものの、血筋は高貴な「貴種」として貴族社会にいたのです。彼が力を注いだのは、政治の世界での出世ではなく、和歌でした。業平は、六歌仙と三十六歌仙に共に名を連らね、『古今和歌集』などの勅撰集にも数多く歌が採られています。いちばんよく知られているのは、百人一首に入っている、
ちはやぶる神代も聞かず龍田河(たつたがは)
からくれなゐに水くくるとは
かもしれませんね。
業平の人物像は、『日本三代実録にうかがうことができます。そこには「体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」、つまり、容姿端麗で顔が美しく、細かいことにはこだわらずのびのびしていて、学はほぼなかったけれど、和歌の名人であった、とあります。ここでいう「才学」とは漢詩文の才能のことです。当時、男の教養といえば漢詩と漢文でした。ところが業平はそれが得意ではなかったという。ここは大事なポイントです。臣籍降下して出世争いからは外れた業平ですが、彼自身、権力から離れたいという思いはあったようで、だから漢詩に熱が入らなかったのでしょう。父や祖父の運命を見ていれば、そう思うのも当然かもしれません。
出世は望まないにせよ、何らかのかたちで自分の存在を認めてほしい。人間だれしも思うことではないでしょうか。業平の場合、その思いの向かった先が和歌でした。不遇をかこった業平には、思うに任せぬこともたくさんあったわけですが、それがそのまま歌をつくる力となり、モチベーションにもなった。命のエネルギーを思いきり歌づくりに注いだため、業平の歌は人々の心を打つのです。その結果として、女性にモテた。そういう順番だったと私は思います。
■『NHK100分de名著 伊勢物語』より
※高樹さんの「高」の字は、正しくは「はしごだか」です。
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在原業平は、祖父が平城(へいぜい)天皇、父がその第一皇子である阿保(あぼ)親王、母は桓武(かんむ)天皇の第八皇女である伊都(いず)内親王という家系に生まれました。血筋では天皇につながっているのですが、父の願い出により、業平は兄らとともに在原姓を賜(たまわ)って臣籍にくだり、皇族ではなくなりました。これを臣籍降下(しんせきこうか)といいます。
臣籍降下というシステムが始まったのは、桓武天皇の時代です。天皇の子どもが増えすぎたため、天皇から氏名(うじな)と姓(かばね)を賜る代わりに天皇になる権利は放棄する、という制度が生まれたわけです。
では、なぜ阿保親王は息子たちを臣籍降下させたのでしょうか。それは息子たちを思ってのことだったと私は思います。阿保親王は、父の平城天皇(当時は上皇)が平城還都(かんと)を目指して起こした薬子(くすこ)の変に連座したとされ、大宰府に流される憂き目にあっています。平城天皇は『万葉集』に長けた文人でもありましたから、平城京への愛着があり、都をまた奈良に戻したいという願望があったのでしょう。それで還都を画策したのですが、結果的に敗れ、平安京の都としての地位が確定します。上皇自身も剃髪(ていはつ)し、隠棲(いんせい)を余儀なくされました。権力に盾突いて敗れた家の者は、もはや出世など望まない方がよい。阿保親王はそう考えたのだと思います。
つまり業平は、天皇になる道は断たれていたものの、血筋は高貴な「貴種」として貴族社会にいたのです。彼が力を注いだのは、政治の世界での出世ではなく、和歌でした。業平は、六歌仙と三十六歌仙に共に名を連らね、『古今和歌集』などの勅撰集にも数多く歌が採られています。いちばんよく知られているのは、百人一首に入っている、
ちはやぶる神代も聞かず龍田河(たつたがは)
からくれなゐに水くくるとは
かもしれませんね。
業平の人物像は、『日本三代実録にうかがうことができます。そこには「体貌閑麗、放縦不拘、略無才学、善作倭歌」、つまり、容姿端麗で顔が美しく、細かいことにはこだわらずのびのびしていて、学はほぼなかったけれど、和歌の名人であった、とあります。ここでいう「才学」とは漢詩文の才能のことです。当時、男の教養といえば漢詩と漢文でした。ところが業平はそれが得意ではなかったという。ここは大事なポイントです。臣籍降下して出世争いからは外れた業平ですが、彼自身、権力から離れたいという思いはあったようで、だから漢詩に熱が入らなかったのでしょう。父や祖父の運命を見ていれば、そう思うのも当然かもしれません。
出世は望まないにせよ、何らかのかたちで自分の存在を認めてほしい。人間だれしも思うことではないでしょうか。業平の場合、その思いの向かった先が和歌でした。不遇をかこった業平には、思うに任せぬこともたくさんあったわけですが、それがそのまま歌をつくる力となり、モチベーションにもなった。命のエネルギーを思いきり歌づくりに注いだため、業平の歌は人々の心を打つのです。その結果として、女性にモテた。そういう順番だったと私は思います。
■『NHK100分de名著 伊勢物語』より
- 『伊勢物語 2020年11月 (NHK100分de名著)』
- 髙樹 のぶ子
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