快慶晩年の名作・十大弟子像

大報恩寺の霊宝殿に安置された十大弟子像。ずらりと一列に並び、圧倒的な存在感で迎えてくれる 撮影:大西二士男
平安時代後期、仏像のお手本となる「和様(わよう)彫刻」を完成させたのは定朝(じょうちょう)です。その後も都では、多くの仏像が誕生しましたが、仏師の系統は3派に分かれました。京都に工房を構える院派(いんぱ)と円派(えんぱ)、主に奈良で活動した慶派です。慶派に属する運慶と快慶は、康助(こうじょ)・康朝(こうちょう)の2代に仕えた康慶(こうけい)に師事し、それまでの仏像の流れを一新し、鎌倉時代の仏像の世界を築きました。駒澤大学教授の村松哲文(むらまつ・てつふみ)さんに、快慶晩年の名作、十大弟子像(じゅうだいでしぞう)について教えていただきました。

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京都市上京区にある大報恩寺(通称千本釈迦堂)は、鎌倉時代初期に創建された古刹です。境内に設けられた霊宝殿には、快慶とその弟子の作品がずらりと並び、知る人ぞ知る鎌倉彫刻の宝庫となっています。
大報恩寺の本尊は釈迦如来(行快作・秘仏)で、お釈迦様に常に付き従う十大弟子もつくられました。十大弟子とは、大勢のお釈迦様の弟子の中で、特に有能で信頼が厚かったとされる10人のことで、お釈迦様の息子やいとこなど、身内も含まれています。この10人が選ばれたのは各分野に秀でているからですが、それについては、聖徳太子が日本で初めて注釈したとされる仏典の1つ『維摩経(ゆいまきょう)』の「弟子品(でしぼん)」という章に記されています。そこには、全員「○○第一」という別名がついていますが、その分野においてナンバーワンであることを示しています。「智慧第一」とあれば、もっぱら知恵が優れていること、「説法第一」とあれば弁が立ち、話上手ということになります。
大報恩寺の十大弟子を手がけたのは快慶とされていますが、実際には10躯の像は作風的に異なるものもあるようです。大報恩寺がつくられたころは、運慶と快慶にとっては晩年にあたり、それぞれが自分の仕事をしていました。本拠地を京都に移した運慶は、仕事を息子の湛慶(たんけい)に任せ、自身は鎌倉幕府と関わる仏像を多く手がけます。晩年の快慶は湛慶とも一緒に仕事をし、貞応(じょうおう)2年(1223)の醍醐寺琰魔堂(えんまどう)の諸像(現存せず)や嘉禄(かろく)3年(1227)の京都・極楽寺の阿弥陀如来立像などをつくりました。その極楽寺の像内の納入品から、快慶は同年8月12日以前に亡くなっていたことがわかります。
快慶が晩年に手がけた中で、まとまった数が残っているのはこちらの十大弟子像だけで、台座に刻まれた文字などから、承久元年(1219)から同3年(1221)にかけて、制作されたと考えられています。いずれも、木造、彩色、玉眼で、像高は90〜100cm 、重要文化財に指定されています。

■「優波離(うばり)」

 


快慶とその弟子・行快が手がけたとされる像。優波離はかつて釈迦一族のおかかえ理髪師。お釈迦様が太子のころには執事をつとめ、教団の規律を守るのに厳格だったことから、「持律第」と呼ばれました。
※十大弟子のそれぞれの名前は、寺院によって異なります。ここでは大報恩寺の呼称で統一しました。
■『NHK趣味どきっ!アイドルと巡る 仏像の世界』より

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