ドストエフスキーは「神が創造した永遠の調和のもとで起こる不幸」をどう描いたか?
神が造った全体の調和の中で起きる「個別の不幸」について、ドストエフスキーは幼児虐待事件の裁判記録を参照するなどして考え抜いていました。ロシア文学者で名古屋外国語大学学長の亀山郁夫(かめやま・いくお)さんが、『カラマーゾフの兄弟』に見える信仰と現実主義を語ります。
* * *
ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書くにあたって、ロシアの『カンディード』を書くという大きな目標を掲げていたとされています。
『カンディード』とは、フランス啓蒙主義の思想家・作家のヴォルテールの傑作小説です。1755年、ポルトガルの首都リスボンで起きた大地震(マグニチュード8.5相当、死者約6万人)に衝撃を受けた彼は、「予定調和」を唱えるドイツの哲学者ライプニッツの楽天主義(最善説)に対して根本的な批判を投げ掛けるに至りました。ヴォルテールは酸鼻をきわめるリスボンの実情を前に、「世界はよし」を叫ぶことができなかったのです。そこで彼は、ライプニッツを、「すべての出来事は最善」とするカンディードの師匠パングロスになぞらえ、これを徹底批判したのでした。
イワンとアリョーシャの料理屋での対決は、まさに、ヴォルテールとライプニッツの思想的対決をなぞるものです。修道院で平和な生活を送るアリョーシャはまだ、世界や自分を根本から揺るがすような事件にも悲劇にも遭遇していません。だから、何の疑問も抱かず「予定調和」的な世界に安住していられるのだ、と、イワンは暗にアリョーシャを批判します。いや、アリョーシャに試練を課していると言ってもいいかもしれません。その試練とは、まさに、猟犬に子どもを嚙み殺させた地主の物語でした。イワンからすると、この地主の存在そのものこそ、リスボンの地震にも匹敵する、運命の、造物主の悪意ということになります。イワンの無神論はここに誕生するのです。
神が造った調和のもとでの不幸の存在とは、キリスト教が抱える最も大きな矛盾でしょう。ドストエフスキーも、ここをきちんと説明できなければ、キリスト教の問題は論じられないと考えていたはずです。彼は、政治的・思想的にはキリスト教の信仰を認めながらも、一方で、ロシアで現実に行われている幼児虐待の問題に関心を寄せ、足繁く裁判所に通うなどしてこのテーマについて考え続けていました。彼の主宰する雑誌『作家の日記』には、『カラマーゾフの兄弟』の執筆に先立つ1876年から77年にかけてロシアで起こった幼児虐待事件の事例がいくつも紹介されています。
クローネベルグ事件(1876年1月、サンクトペテルブルグ)
コルニーロワ事件(1876年5月、サンクトペテルブルグ)
ジュンコフスキー事件(1877年6月、カルーガ)
ドストエフスキーがこれらの事件からどれほどの衝撃を受けたかは想像するにあまりあります。作家を苦しめていたのは、このような悲劇が、なぜ、キリスト教を奉じるロシアで起きるのか、という根本的疑念だったと思います。
では、アリョーシャが放った「銃殺にすべきです!」の一言は、その矛盾を解消する答えだったのでしょうか。いえ、もちろんそうではありません。たしかに、 罪人を銃殺にすべきとは、キリスト教信仰者としては最悪の答えです。しかしながら、アリョーシャにこのセリフを言わせたドストエフスキーの思いとは、そうではなく、この一言を吐くことこそが真の信仰者の証である、というものだったと思うのです。つまり、現実に対してそれくらい怒るということこそ最も人間的な態度である。現実に行われている不幸に対してそれほどに心が動くということなしに、宗教人でいられることなどない、ということ。ことによると、ドストエフスキーがアリョーシャについて「現実主義者」と呼んだ真意は、ここにあったと見ることができるかもしれません。
信仰者として取るべからざる態度とは、現実の不幸に対して無関心でいることです。子どもを犬に嚙み殺させた親は銃殺にしなければならない、と一瞬思うほどの憎悪や怒りを持つことのほうが、むしろ信仰に近い。アリョーシャにとっては、それこそが宗教者としての第一歩だったと言ってよいかもしれません。
しかしいかに「現実主義者」であっても、現段階でのアリョーシャは、あまりに経験が乏しい。じつはこれは、死の床にあるゾシマ長老が深く懸念していたことでもあります。ゾシマ長老は、自分の死後、修道院を出ていくようにとアリョーシャに伝えていました。修道僧として精神的な高みをめざすのはいいが、 いまのままではだめだ、もっと世の中に出て、市井の人々の喜怒哀楽をしっかり見なさい、という思いです。さきほど、ドストエフスキーが描く登場人物の魅力は傷つきやすさだと言いましたが、興味深いことに、現在のアリョーシャには、 ごく一般的な意味での傷つきやすさというものがほとんど感じられません。ゾシマはそこを危険視したのです。
■『NHK100分de名著 カラマーゾフの兄弟』より
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ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』を書くにあたって、ロシアの『カンディード』を書くという大きな目標を掲げていたとされています。
『カンディード』とは、フランス啓蒙主義の思想家・作家のヴォルテールの傑作小説です。1755年、ポルトガルの首都リスボンで起きた大地震(マグニチュード8.5相当、死者約6万人)に衝撃を受けた彼は、「予定調和」を唱えるドイツの哲学者ライプニッツの楽天主義(最善説)に対して根本的な批判を投げ掛けるに至りました。ヴォルテールは酸鼻をきわめるリスボンの実情を前に、「世界はよし」を叫ぶことができなかったのです。そこで彼は、ライプニッツを、「すべての出来事は最善」とするカンディードの師匠パングロスになぞらえ、これを徹底批判したのでした。
イワンとアリョーシャの料理屋での対決は、まさに、ヴォルテールとライプニッツの思想的対決をなぞるものです。修道院で平和な生活を送るアリョーシャはまだ、世界や自分を根本から揺るがすような事件にも悲劇にも遭遇していません。だから、何の疑問も抱かず「予定調和」的な世界に安住していられるのだ、と、イワンは暗にアリョーシャを批判します。いや、アリョーシャに試練を課していると言ってもいいかもしれません。その試練とは、まさに、猟犬に子どもを嚙み殺させた地主の物語でした。イワンからすると、この地主の存在そのものこそ、リスボンの地震にも匹敵する、運命の、造物主の悪意ということになります。イワンの無神論はここに誕生するのです。
神が造った調和のもとでの不幸の存在とは、キリスト教が抱える最も大きな矛盾でしょう。ドストエフスキーも、ここをきちんと説明できなければ、キリスト教の問題は論じられないと考えていたはずです。彼は、政治的・思想的にはキリスト教の信仰を認めながらも、一方で、ロシアで現実に行われている幼児虐待の問題に関心を寄せ、足繁く裁判所に通うなどしてこのテーマについて考え続けていました。彼の主宰する雑誌『作家の日記』には、『カラマーゾフの兄弟』の執筆に先立つ1876年から77年にかけてロシアで起こった幼児虐待事件の事例がいくつも紹介されています。
クローネベルグ事件(1876年1月、サンクトペテルブルグ)
コルニーロワ事件(1876年5月、サンクトペテルブルグ)
ジュンコフスキー事件(1877年6月、カルーガ)
ドストエフスキーがこれらの事件からどれほどの衝撃を受けたかは想像するにあまりあります。作家を苦しめていたのは、このような悲劇が、なぜ、キリスト教を奉じるロシアで起きるのか、という根本的疑念だったと思います。
では、アリョーシャが放った「銃殺にすべきです!」の一言は、その矛盾を解消する答えだったのでしょうか。いえ、もちろんそうではありません。たしかに、 罪人を銃殺にすべきとは、キリスト教信仰者としては最悪の答えです。しかしながら、アリョーシャにこのセリフを言わせたドストエフスキーの思いとは、そうではなく、この一言を吐くことこそが真の信仰者の証である、というものだったと思うのです。つまり、現実に対してそれくらい怒るということこそ最も人間的な態度である。現実に行われている不幸に対してそれほどに心が動くということなしに、宗教人でいられることなどない、ということ。ことによると、ドストエフスキーがアリョーシャについて「現実主義者」と呼んだ真意は、ここにあったと見ることができるかもしれません。
信仰者として取るべからざる態度とは、現実の不幸に対して無関心でいることです。子どもを犬に嚙み殺させた親は銃殺にしなければならない、と一瞬思うほどの憎悪や怒りを持つことのほうが、むしろ信仰に近い。アリョーシャにとっては、それこそが宗教者としての第一歩だったと言ってよいかもしれません。
しかしいかに「現実主義者」であっても、現段階でのアリョーシャは、あまりに経験が乏しい。じつはこれは、死の床にあるゾシマ長老が深く懸念していたことでもあります。ゾシマ長老は、自分の死後、修道院を出ていくようにとアリョーシャに伝えていました。修道僧として精神的な高みをめざすのはいいが、 いまのままではだめだ、もっと世の中に出て、市井の人々の喜怒哀楽をしっかり見なさい、という思いです。さきほど、ドストエフスキーが描く登場人物の魅力は傷つきやすさだと言いましたが、興味深いことに、現在のアリョーシャには、 ごく一般的な意味での傷つきやすさというものがほとんど感じられません。ゾシマはそこを危険視したのです。
■『NHK100分de名著 カラマーゾフの兄弟』より
- 『ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 2019年12月 (NHK100分de名著)』
- 亀山 郁夫
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