悪い妖怪から愛されキャラへ……「河童」の正体

かっぱ橋道具街の90周年を記念して、平成15年(2003) に建立された「かっぱ河太郎像」。商売繁盛のシンボルとして、商店街を見守っている。撮影:森山雅智
江戸の人々は、日本で最も有名な妖怪の1つである河童の存在を信じていたようです。「河童を見た!」という人の話も珍しくはなく、水難事故の多くは河童の仕業と恐れられました。そんな悪い河童ですが、人のために働くようになると、姿形もユニークに変化し、慕われるようになっていきます。國學院大學文学部准教授の飯倉義之(いいくら・よしゆき)さんに、河童の歴史を教えてもらいました。

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知名度の高い妖怪、河童は、鬼や天狗(てんぐ)などに比べるとその歴史は意外に新しく、江戸時代になってようやく河童(当時は河太郎・川太郎とも呼ばれた)が注目されるようになりました。江戸は水の町で、川や堀が至るところにあり、そのため水難事故は日常茶飯事。そんな江戸の町で、川で遊んでいた子どもが溺死したり、馬が水辺で死んだり、あるいは田畑が荒らされたりすると、川に棲(す)んでいる妖怪(化け物)、つまり河童の仕業にされたのです。
一体、河童とは何なのでしょう。水辺に棲む怖い生き物の正体を、はっきりと見た人はいなかったようです。
民俗学者の柳田國男(やなぎだ・くにお/1875〜1962)は、河童の起源を日本の水神と捉えていました。河童は地域によって、「メドチ」や「ミンツチ」と呼ばれますが、古代の水の神「ミズチ」の発音がなまって伝わったものと考えていたからです。
ところが、当時の本草学(ほんぞうがく)をはじめとする江戸の知識人たちは、河童のイメージを中国の水神と結びつけました。本草学は中国で発達した、疾病治療に役立てる動植物や鉱物を中心に研究する学問です。


中国の水神の代表は、「水虎」と「河伯(かはく)」です。「水虎」は淡水に棲み、体はうろこに覆われ、大きさは小さな子どもくらい。虎の爪に似た膝頭を水面から出しているために、水虎と称されます。「河伯」は黄河(こうが)に棲み、人面魚体ともいわれています。
「水虎」は日本初の絵入り百科事典『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(1712)に紹介されたことで、広く知られるようになりました。「水虎」に続いて「川太郎(河童)」の項目があり、両方を比べると、水虎は体がうろこで覆われ、川太郎は毛で覆われています。うろこが体毛になっただけで、全体的にはそれほど違いがないように見えます。
本草学者たちは、互いの知識を交換し合うため、定期的に物産会を開いていました。それに伴い、諸国の物産を集めた書物も出版されるようになります。河童に関する記述も多く、『日本山海名物図会(にほんさんかいめいぶつずえ)』(1754)には、豊後(ぶんご)の国の河太郎に関する情報が記されています。それによると、河太郎は相撲を好み、時には人を水に引きずり込むことがあると書かれています。絵をよく見ると、頭に皿がついています。私たち、日本人がイメージする河童の姿に似てきました。ただし、『和漢三才図会』の影響かもしれませんが、体はうろこではなく、毛に覆われています。
江戸期最高の学問機関に、昌平坂(しょうへいざか)学問所があります。そこの教官を務めていた古賀侗庵(こが・とうあん/1788〜1847)は、本草学を基本にした河童の研究をしていて、『水虎考略(すいここうろ)』(1836)という河童の研究書を出版。古賀は河童に似た生き物の総称として、中国ゆかりの水虎を結びつけたのでした。


知識人たちの間で学問の対象となった河童ですが、一方では面白おかしく表現されていました。江戸時代は出版文化の全盛期でもあり、浮世絵や黄表紙(絵本の一種)にも河童が数多く登場。ここでの河童は、化け物として描かれ、江戸を代表する新顔の妖怪として活躍しました。そして、いつの間にか怖いイメージが払拭(ふっしょく)された河童は、漫画やキャラクターに起用され、愛されキャラとして現在に至っています。
■『NHK趣味どきっ! 京都・江戸 魔界めぐり』より

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