戦争は「破壊のための組織的企て」である
ロジェ・カイヨワは、第二次世界大戦後すぐに『戦争論』を書き始めました。ここでは、カイヨワによる「戦争」の定義について、哲学者の西谷修(にしたに・おさむ)さんに教えていただきます。
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カイヨワはこの本全体の序文の中で、こう書いています。
戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間の心と精神とを如何にひきつけ恍惚とさせるかを研究したものであった。
つまり戦争が「恐るべき圧倒的な現実」として私たちにのしかかり、「個人個人の意識のなかにその目くるめくばかりの反響が現われてきていること」に目を向ける。そして、そのような戦争のあり方を規定するものとして国家に焦点をあて、国家が戦争と密接に結びつきながらどういう発達を遂げ、両者がどのような関係を持っていたのかに、とりわけ力点を置いて見ていく。この本の狙いがそこにあることを、ふまえておいてください。
また、「戦争」という言葉は、幅広く曖昧に使われます。それが人間の集団全体を巻き込んで、さまざまな限界を壊す出来事であるために、これを一義的に定義することはできないし、一面からの規定は戦争の現実を見誤らせることになります。しかし、核心だけは指定して、共有しておかないと議論が成り立ちません。
戦争の本質は、そのもろもろの性格は、戦争のもたらすいろいろな結果は、またその歴史上の役割は、戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる。
カイヨワはまず、戦争は人間集団間の「破壊のための組織的企て」であると定義します。いわゆる政治的行為や単なる武器による闘争ではなく、敵の集団を破壊するための、集団による組織的な暴力が、戦争行為であるというのです。
近代になると、戦争は主権国家同士の抗争であるという約束事ができるのですが、もともとは国家と国家の抗争に限らず、いろいろな形があったわけです。しかし犬のケンカは戦争ではなく、個々の人間同士の殴り合いも違います。人間により構成された集団が、組織的に兵器という道具を用いて、敵の人間の命や所有物を破壊する。これはサルをふくめた動物にはできないことです。
ですから、まさに「戦争は文明を表出している」といえます。そして道具と組織化という戦争の要件は、それぞれの時代や地域における文明の状態と密接に関係していると、カイヨワは強調します。
戦争は文明とは逆のものだともいわれるが、道徳的見地あるいはその語源からいうのでなければ、これは正確ないい方ではない。戦争は、影のように文明につきまとい、文明と共に成長する。多くの人びとがいうように、戦争は文明そのものであり、戦争が何らかの形で文明を生むのだというのも、これまた真実ではない。文明は平和の産物であるからだ。とはいえ、戦争は文明を表出している。
それは、「戦争は野蛮だ」とか「文明国はそんなことをしない」といった考え、戦争を文明とは相容れないものとする一般的な考え方の否定です。むしろ逆で、戦争の発展と文明の発展とは、切っても切れない関係にあるものだというのです。ただし、戦争が文明をつくり出すのではなく、平和のうちに開花する文明を戦争は使い尽くす、ということでしょうか。
■『NHK100分de名著 ロジェ・カイヨワ 戦争論』より
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カイヨワはこの本全体の序文の中で、こう書いています。
戦争そのものの研究ではなく、戦争が人間の心と精神とを如何にひきつけ恍惚とさせるかを研究したものであった。
(序)
つまり戦争が「恐るべき圧倒的な現実」として私たちにのしかかり、「個人個人の意識のなかにその目くるめくばかりの反響が現われてきていること」に目を向ける。そして、そのような戦争のあり方を規定するものとして国家に焦点をあて、国家が戦争と密接に結びつきながらどういう発達を遂げ、両者がどのような関係を持っていたのかに、とりわけ力点を置いて見ていく。この本の狙いがそこにあることを、ふまえておいてください。
また、「戦争」という言葉は、幅広く曖昧に使われます。それが人間の集団全体を巻き込んで、さまざまな限界を壊す出来事であるために、これを一義的に定義することはできないし、一面からの規定は戦争の現実を見誤らせることになります。しかし、核心だけは指定して、共有しておかないと議論が成り立ちません。
戦争の本質は、そのもろもろの性格は、戦争のもたらすいろいろな結果は、またその歴史上の役割は、戦争というものが単なる武力闘争ではなく、破壊のための組織的企てであるということを、心に留めておいてこそ、はじめて理解することができる。
(第1部・第1章)
カイヨワはまず、戦争は人間集団間の「破壊のための組織的企て」であると定義します。いわゆる政治的行為や単なる武器による闘争ではなく、敵の集団を破壊するための、集団による組織的な暴力が、戦争行為であるというのです。
近代になると、戦争は主権国家同士の抗争であるという約束事ができるのですが、もともとは国家と国家の抗争に限らず、いろいろな形があったわけです。しかし犬のケンカは戦争ではなく、個々の人間同士の殴り合いも違います。人間により構成された集団が、組織的に兵器という道具を用いて、敵の人間の命や所有物を破壊する。これはサルをふくめた動物にはできないことです。
ですから、まさに「戦争は文明を表出している」といえます。そして道具と組織化という戦争の要件は、それぞれの時代や地域における文明の状態と密接に関係していると、カイヨワは強調します。
戦争は文明とは逆のものだともいわれるが、道徳的見地あるいはその語源からいうのでなければ、これは正確ないい方ではない。戦争は、影のように文明につきまとい、文明と共に成長する。多くの人びとがいうように、戦争は文明そのものであり、戦争が何らかの形で文明を生むのだというのも、これまた真実ではない。文明は平和の産物であるからだ。とはいえ、戦争は文明を表出している。
(同前)
それは、「戦争は野蛮だ」とか「文明国はそんなことをしない」といった考え、戦争を文明とは相容れないものとする一般的な考え方の否定です。むしろ逆で、戦争の発展と文明の発展とは、切っても切れない関係にあるものだというのです。ただし、戦争が文明をつくり出すのではなく、平和のうちに開花する文明を戦争は使い尽くす、ということでしょうか。
■『NHK100分de名著 ロジェ・カイヨワ 戦争論』より
- 『ロジェ・カイヨワ『戦争論』 2019年8月 (NHK100分de名著)』
- 西谷 修
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