「あの手紙がなければいまの自分はなかった」

撮影:河井邦彦
平成の将棋界はどのように動いてきたのか。平成の将棋界をどうやって戦ってきたのか。勝負の記憶は棋士の数だけ刻み込まれてきた。連載「平成の勝負師たち」、2019年8月号には井上慶太(いのうえ・けいた)九段が登場する。

* * *

勝利は目前だった。これでようやく昇級することができる。
平成元年3月7日、6期目のC級2組順位戦。8勝1敗の井上は昇級圏内で最終局を迎えた。相手は形作りとも言える竜の王手。残り3分から一分将棋になるまで考えて持ち駒の金を打ちつけた―。
大ポカだった。金は寄せに残しておかなければならなかった。それによって相手玉が詰まなくなってしまい、ほぼ手中に収めていた勝利と昇級がこぼれ落ちる。
大逆転負けを喫した井上は結果、4位の次点で涙をのむことになった。悔しさをごまかすように朝まで飲み明かす。
後日、自宅に速達で郵便が届く。差出人は兄弟子の谷川浩司九段だ。棋士室で観戦していたが、いたたまれなくなって先に帰らせてもらったこと。そして「報われない努力はない」と綴(つづ)られていた。
井上は「あの手紙がなければいまの自分はなかった」と振り返る。

■順位戦の不運

プロデビューは1983年。人懐っこいルックスから「キューピー」という愛称で先輩棋士からかわいがられた。新人王戦で優勝し、王座戦では2年続けてベスト4に入るなど、順調にステップアップしているようだったが、順位戦ではC級2組で足踏みが続いていた。
「順位戦で昇級できずに行き詰まりや焦りを感じていました。当時は自分の将棋に自信が持てず、一分将棋になると『ミスが出るんじゃないか』と不安な気持ちになっていました。スポーツ選手でいう、イップスのようなものですね」
翌年の順位戦は7勝2敗で最終戦を迎えた。この年は自力ではなく他力の4番手という状況。前年のような重圧はなく、伸び伸びと指すことができた。
8勝目を挙げて感想戦をしていると、対局室の襖(ふすま)がばっと開いた。先崎学九段が近づいてきて「井上さん、あがりましたよ!」。競争相手が敗れたことで井上に昇級が転がり込んできたのだ。「あのときはうれしかったですねぇ」と井上は述懐する。曇っていた棋士人生の視界に、ようやく晴れ間が見えた気がした。
C級1組では2期目に9勝1敗の好成績ながら、またしても次点に泣く。8連勝で迎えた9回戦に敗れたところで昇級の可能性そのものが消滅していた。
「最終戦を頑張ろうと思っていたので呆(ぼう)然としましたね。春に結婚が決まっていて、昇級もと考えていたんですけど……。甘かったですねぇ(苦笑)」
※続きはテキストでお楽しみください。
■『NHK将棋講座』2019年8月号より

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