従軍経験を持つ宮 柊二が求めた穏やかな「永遠」

『NHK短歌』の講座「時間を書きとめる」、2019年8月号の題は「永」です。「塔」選者の江戸 雪(えど・ゆき)さんが、宮 柊二(みや・しゅうじ)の歌集『晩夏』(1951)から一首紹介します。

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「永」という題から何を思い浮かべましたか。「永遠」「永久」「永続」「永世」など、すぐさま挙げることのできるこれらの言葉はどれもとこしえを意味するものばかりです。多くの人々は物事が終わることを恐れ、時間や存在が永遠に続くことを願います。けれど、もし全てのものに終わりがなくなってしまえばどうでしょう。限りあるものだからこそ大切に思う気持ちが生まれ、責任を持って生きようとするのではないでしょうか。
果てしのないもの。それは万人の憧れでもあり、同時にどこか哀(かな)しくさびしいものなのかもしれません。
流れつつ藁(わら)も芥(あくた)も永遠に向ふがごとく水(みづ)の面(も)にあり

宮 柊二『晩夏』


宮柊二は昭和14(1939)年から約五年間、中国・山西(さんせい)省に出征。戦地のあまりの惨状にもう二度と戦争をしてはいけないという強い思いを抱いていました。しかし、その願いとは裏腹に昭和25(1950)年6月、朝鮮半島で戦争が勃発。
この歌はその年の8月に発表されました。
水の面に漂っている「藁」や「芥」をじっと見つめている場面です。そしてそれらは「永遠」という果てしない時空に向かってゆく運命なのだというのです。場面を限界まで削(そ)ぎ落とし、研ぎ澄まされた言葉で詠っているこの歌を何度も読んでいると、一瞬と永遠はつきつめていけば同じであると語っているように思えてきます。あるいは先述したような戦後の情況を考えると、情景を何かの象徴として捉え、何かメッセージを伝えようとしているのかもしれません。
もしそうだとすると、流れる水の面が何であるかによって「永遠」という言葉の意味も変わってくるように思います。
例えば、流れる水の面が大きな時間の流れの喩(たと)えだとすると、どんな事が起ころうとも世界の全てのものは時間を脱して「永遠」へ向かう存在なのだという考えを読み取れます。そのとき「永遠」は遥かな眩しい空間や願いのようです。一方で、水の面を争いの場の比喩として読めば、突き動かされるように争い、そして向かおうとしている「永遠」はどこか空虚な存在として語られていると解釈できないでしょうか。
様々な読みが可能な歌ですが、やはり宮柊二は、この歌によって穏やかな「永遠」を求めていたように思えてなりません。
■『NHK短歌』2019年8月号より

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