未完の傑作『虚無回廊』

宇宙空間に出現した謎の超巨大天体“SS”は、誰が、何のためにつくったのか? 地球から送り出されたAE(人工実存)が、多くの知的生命体と共同して探査を進める——。小松左京がイマジネーションを極限まで伸張させ、壮大な宇宙進化史を仮構してみせた集大成的な作品、それが『虚無回廊』です。評論家の宮崎哲弥(みやざき・てつや)さんが、この未完の長編が執筆された背景と物語のあらましを解説します。

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『虚無回廊』は、1986(昭和61)年から2000(平成12)年まで、足掛け15年の歳月を費やして書き継がれます。その途中で執筆が2度中断しています。1度目は1990年の大阪「国際花と緑の博覧会」(花博)の総合プロデューサーの1人となったとき。2度目は、連載媒体だった月刊誌『SFアドベンチャー』の季刊化と路線変更に伴うものでした。小松は執筆の再開に向け努力を続けましたが、1995(平成7)年1月17日、阪神淡路大震災が起こります。
阪神間という、僕にとって最もなじみ深い地域を襲った大災害だ。『日本沈没』の著者として、何もしないわけにはいかない。

(『SF魂』)



震災を小松なりに記録し、解析する連載を終えると、小松は極度の疲労感に苛(さいな)まれます。
単行本未収録分を収めた『虚無回廊』(III)が2000年6月に刊行されましたが、結局、『虚無回廊』の最終行に「完」の文字は付されないまま、小松は鬼籍に入ってしまいました。
では、『虚無回廊』の物語のあらましを押さえておきましょう。
あるとき、地球から5.8光年弱離れた宇宙空間に、突如として長さ2光年、直径1.2光年という驚異的なスケールの円筒形の物体が出現する。“SS”(Super Structure)と命名されたその物体は少しずつ場所を変えながら、出現と消滅を繰り返します。“SS”から有意信号らしきものが発信されていることがわかると、科学者たちは、探査機を送り込む計画を推し進めます。
もし、“SS”に異星の知的生命体が存在するのなら、彼らとコミュニケーションするために、どうあってもその探査機に人間が乗り込まねばなりません。しかし、この恒星間航行には、70年もかかってしまう。そこで白羽の矢が立ったのが、若きAI=人工知能(Artificial Intelligence)開発者の遠藤秀夫でした。
遠藤は3歳年上の共同研究者で、彼の妻となるアンジェラ・インゲボルグとともに、AIを超える“AE=人工実存”(Artificial Existence)の開発に取り組みます。人工実存とは、人間の道具ではない、魂をもったコンピューターです。遠藤はAEを次のようなものと想定しています。
「いくらでもでかくなり、性能はよくなっても、“人工知能”はついに人間の道具でしかない。これからは“人工実存”をターゲットにしなきゃならないんだ。“AI”から“AE ”へだ……」
「そうね……」アンジェラはちょっととまどいながらいった。「それはすばらしいアイデアだわ。コンピューターの中に、心をうみ出すのね!」
「心じゃない。魂だ!……自分の存在を自覚し、自分のあたえられた条件を知って、自分も、この宇宙の中における使命0 0 を自覚し、それへむかうもの……“人工実存”のハードウエアが、もし、自己修復、自己改良、自己複製のシステムを持って、しかも、その“魂”までトランスファーできるようになったら……人間の知性と魂は、ついにこの自然からあたえられた有限の容器から解放されて、“永生”を獲得する事になるんだ……」
遠藤にとって、そしておそらく小松にとって、心と、魂あるいは実存の違いは、自己の存在理由の自覚の有無であり、言い換えるならば、高次の目的意識、「宇宙の中における使命」感の有無にあることが読み取れます。
10年の歳月をかけ、遠藤が開発したAEは、彼のイニシャルに因んで「HE」と名付けられました。1機目のHE1は地震で損壊、2機目のHE2が“SS”に向けて進発します。他方でHEという名称は、二重の意味(ダブル・ミーニング)を帯びているようで、小松はハイパー・イグジステンス(Hyper Existence)、超実存の略だとも語っています。「超実存は有限なる実存、有限なる生命的実存を超えて宇宙と一体になるとかね」(『自伝』)。
HE2は、宇宙探査船の主体として長い旅路につく。しかしおよそ35年後、“SS”の近くまで達したところで、EEトランスファー・システム(疑似体験システム)で繋がっていた遠藤の突然の死を、「5年と8ヵ月26日14時間余り」の時間差で知ります。そしてHE2は、自由意思により「義務遂行契約の破棄」を宣告、一切の通信機能を備えた「SCユニット」を切り離し、地球との交信を絶ちます。爾後はHE2は、自己の内部に(厳密には、附属しているバックアップAI群のなかに)6体の仮想人格(VP、Virtual Personality)を形成し、相互にコミュニケートしながら、“SS”の探査を続けます。
その“SS”には、他の星系から送り出された人工知性体“タリア6”や、地球人と似たような姿をしているものの、頭頂部にうすい緑色の眼球を持ち、1億年近くも生きているという「老人」をはじめ、多様多彩な知性体が集まっており、抗争や共生を繰り広げています。いったい、何者が、どんな目的で“SS”を創造し、その内部に宇宙の知性を誘導したのか……。
やがて、誘蛾灯に引き寄せられるように宇宙全体から“SS”に集まったさまざまな知性体の代表者たちにより、“SS”について今まで知りえた情報、知識を共有するための“会議”が開かれます。HE2とVPたちも「ソル3=地球代表」として招かれることになりました。そこでの、約1000年前に“SS”に到着し、調査を進めてきたン・マ族の代表のスピーチは驚倒(きょうとう)すべきものでした。それは“SS”の本質とは何かを説明するものだった。その演説を、HE2は次のように心の中で総括します。
「無」を媒介項として「虚宇宙」と「実宇宙」をつなぎ、しかもそのつなぐルートは「回」でも「廊」でも、どちらでも「位相的に等価」であるような存在、「虚無回廊!」
 
これこそ、SSの本質であり、「虚宇宙」と「実宇宙」を、同じ「宇宙の実体」としてふくむ「複素宇宙」は、いま新しいメディアを得たのだ!
私たちの属している「実宇宙」とは別に、「宇宙構造のごみ捨て場」のようなところから始まり、独自の進化を遂げた「虚宇宙」が存在し、“SS”はその二つの宇宙が“交通”するための「通路」のような構造体なのではないか……。物語は、この仮説が明示されたところで終わっています。
道具立ては、その十全な理解に予備的な知識や思考を要するものも多い。現代宇宙論から虚数(イマジナリー・ナンバー)や複素数(コンプレックス・ナンバー)の哲学的含意まで、一定の理解が前提になっています。
しかし、少なくとも書かれた部分までのプロットは極めて単純で、むしろ見易い、といえるでしょう。とくに第1章以降は、遠藤秀夫の分身であるHE2によって一人称で語られる、謎の天体“SS”探査の旅の記録であり、さほど複雑な筋立てや凝った展開はみられません。
けれども物語の“骨格”の単純性とは裏腹に、いわば“肉置(ししお)き”の方は実に豊かです。“SS”やAEをはじめ、舞台や状況、登場するキャラクター、歴史的背景、理論的装置などの諸設定について詳細に説明される。極めて特殊で容易に想像できない事象も多く、丁寧な解説が施されています。
『虚無回廊』の“肉”の部分の多くが、こうした設定の説明に割かれています。あと“肉”で重要なのは“問題”の提起と共有です。状況など、設定に密接に関連して、様々な“問題”が提出されます。物語の進行に従って、その“問題”は解かれていくわけですが、この作品は未完に終わってしまったため、そのほとんどに関して、答えは出されず仕舞(じまい)でした。
それでも、設定自体やその解説が飛び切り面白く、「センス・オブ・ワンダー」を刺戟(しげき)するものであり、提起された“問題”もこの上なく示唆に富み、思考を喚起させるものであるために、『虚無回廊』は未完でも現代日本を代表するSFの傑作とされるのです。
■『NHK100分de名著 小松左京スペシャル』より

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