敵とともに生きる! リベラリズムは「最高に寛大な制度」

「保守」のイメージがあるオルテガは、「反リベラル」のように見なされることも多いのですが、評論家で東京工業大学教授の中島岳志(なかじま・たけし)さんは「その見方は正しくない」と指摘します。オルテガは保守的であるがゆえにリベラリズム——自由主義を徹底的に擁護した人物でした。

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■リベラリズムは「最高に寛大な制度」

歴史を振り返ると、「リベラル」という言葉は、もともと「寛容」という意味から発生しています。
近代的な「リベラル」概念の起源は、17世紀前半、ヨーロッパで起こった三十年戦争にあるとされています。この戦争は、本質的には価値観をめぐる戦争でした。前世紀に宗教改革があり、プロテスタント、なかでもカルヴァン派がヨーロッパで大きな力をもちはじめた。これに対して旧勢力であるカトリックの人々が反発し、ヨーロッパを焦土にするほどの戦争につながっていくのです。
しかし、30年間の激しい戦いを経たにもかかわらず、どちらが正しいという結論は出なかった。そこで人々は気付くのです。「価値観の問題については、戦争をしても結論は出ず、人が傷つくだけである」。ここに現われたのが「リベラル」という原則でした。
つまり、自分と異なる価値観をもった人間の存在を、まずは認めよう。多様性に対して寛容になろう。自分から見ると虫酸(むしず)が走るほど嫌な思想であっても、それはその人の思想だと受け入れることが重要だと考える。これが近代的「リベラル」の出発点なのです。
この概念は言い換えれば、「あなたの信仰の自由は認めますから、私が信仰をもつことについてもその自由を保障してください」ということにもなります。ですから、必然的に「寛容」は「自由」という観念へと発展していく。こうして自由主義としてのリベラリズムが生まれてくるのです。
『大衆の反逆』では、自由主義についてこう書かれています。
自由主義とは、公権が万能であるにもかかわらず、公権自体を制限する政治的権利の原則であり、また、公権と同様に、つまり、最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々も生きていくことができるように、公権の支配する国家のなかに、たとえ犠牲を払ってでも、余地を残しておくことに努める政治的権利の原則である。
 
自由主義は──今日、次のことを想起するのはたいせつなことだ──最高に寛大な制度である。
自由主義とは、とにかく最高に寛大な制度であり、他者を受け入れるという寛容な精神にほかならない、と言っています。
権力が万能であるかのように振る舞っているけれど、その権力自体を制限する原則が存在している、とオルテガは考えます。それは、過去から積み重ねられた経験知によってもたらされるものであり、その中核に存在するのが「リベラル」だというのです。
いくら多数派であり、大きな力をもっていても、リベラルの原則──他者に対する寛容を崩してはいけない。いかに多数者がさまざまなことを決定するのであっても、その多数者と同様の考えや感じ方をもたない人の権利を擁護する余地をつくらなくてはならない。そのリベラルの原則に基づいた「最高に寛大な制度」である自由主義は、「地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである」とも言っています。
一方で、このリベラリズムを共有することは、非常に面倒で鍛錬を伴うというのがオルテガの認識でした。自分と考え方の異なる人間に対して、すぐにかっとなったり、一方的に支配したりしようとせず、違いを認め合いながら共生していく。それは手間も時間もかかる面倒な行為であるけれど、それを可能にするために人間は、歴史の中でさまざまな英知を育んできたと考えていたのです。
そのことが書かれているのが、たとえば次の部分です。
手続き、規範、礼節、非直接的方法、正義、理性! これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局、《文明》というただ一語につきるのであり、文明は、《キビス》つまり市民という概念のなかに、もともとの意味を明らかに示している。これらすべてによって、都市、共同体、共同生活を可能にしようとするのである。
このあとには、「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」との一文もあります。自分と異なる他者と共存することこそが「文明」であり、そのときには手続きや規範、礼節といったものが重要になると言っているのです。日本の文脈で言えば、目上の人に対しては敬語を使う、といったことですね。対話の際にそうしたマナーやエチケットを欠いてしまえば、相手は気分を害して「こいつとは一緒にやっていけない」と思うかもしれません。
ところが、その重要な手続きや規範、礼節などを面倒くさがり、すっ飛ばしてしまうのが大衆の時代ではないか、とオルテガは言います。大衆は、そんな面倒なことをするよりも、さっさと多数派で決めてしまえ、多数者にこそ正しさが宿るのだ、と考える。「リベラル」の根幹にあるはずの、互いの自由を保障し、引き受けるという文明性が大衆の時代に破壊されつつあることに、彼は警鐘を鳴らそうとしていたのだと思います。
次は、私のとても好きなくだりです。
敵とともに生きる! 反対者とともに統治する! こんな気持のやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横顔をはっきりと示しているものはない。ほとんどすべての国で、一つの同質の大衆が公権を牛耳り、反対党を押しつぶし、絶滅させている。大衆は── 団結した多数のこの人間たちを見たとき、とてもそんなふうに見えないが──大衆でないものとの共存を望まない。大衆でないすべてのものを死ぬほど嫌っている。
これは、とても重要な指摘だと思います。大衆の時代である現代、人々は自分とは異なる思考をもつ人間を殲滅(せんめつ)しようとしている。自分と同じような考え方をする人間だけによる統治が良い統治だと思い込んでいる。それは違う、とオルテガは言うのです。自分と真っ向から対立する人間をこそ大切にし、そういう人間とも議論を重ねることが重要なのだ、と。
現代では、そうした寛容性が著しく失われている。オルテガの言う「現代」は彼が生きた時代ですが、いまを生きる私たちの時代にも、そしていまの政治にも、十分あてはまるものではないでしょうか。
■『NHK100分de名著 オルテガ 大衆の反逆』より

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