スピノザが持つ三つのファーストネーム
17世紀オランダの哲学者スピノザは3種類のファーストネームを持っていました。ベントー(Bento)、バールーフ(Baruch)、そしてベネディクトゥス(Benedictus)です。三つとも「祝福された者」という意味なのですが、哲学者で東京工業大学教授の國分功一郎(こくぶん・こういちろう)さんは、この三つの呼び名のそれぞれが、スピノザの人生の異なった側面を象徴していると解説しています。
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「ベントー」はポルトガル語の名前です。スピノザの祖先はスペイン系のユダヤ人で、15世紀の終わり、スペインでユダヤ人への迫害が強くなった際に一家で隣国ポルトガルに逃れています。貿易商だった父はポルトガルの生まれです。しかしポルトガルでも迫害は厳しくなり、一家はフランスを経由してオランダのアムステルダムに移住することになります。スピノザは、1632年11月、この街のユダヤ人居住区に誕生しました。
彼の肖像画を見ると、髪は黒く縮れ、瞳も黒く、肌の色も浅黒くて、イベリア半島の出身を窺わせます。家庭ではスペイン語とポルトガル語が使われていたためでしょう、オランダ生まれにもかかわらず、オランダ語はあまり得意ではありませんでした。スペイン語とポルトガル語を流暢に話し、フランス語も少し話せたようです。そんな彼の家庭内での呼び名がベントーでした。この名は彼の出自を示しています。
次の「バールーフ」はヘブライ語の名前です。ユダヤ人家庭といっても、伝統的な立場を重視する保守的で厳格な家から、「懐疑派」と呼ばれるリベラルな家まで多様性があったことは押さえておかねばなりません。スピノザはどちらかというとリベラル寄りの家で育ったようです。
「バールーフ」はつまり、彼の家族の信仰と結びついた名前であるわけですが、この信仰をめぐり、彼の人生における最初の重要な事件が1656年の夏に起こります。24歳の誕生日を迎えようとするスピノザが、ユダヤ教会から破門されるのです。
破門の理由とされる「悪しき行いと意見」の具体的内容ははっきりしません。しかし、スピノザのようなきわめて知的で批判的な精神を持った若者が、伝統に寄りかかるだけの保守的な教会のあり方に疑問を持ち、それに対して服従の態度を示すのを拒否するというのは容易に想像できます。教会側としては生意気な若者にちょっとお灸を据えてやろうという程度の軽い「破門」だったようです。ところがスピノザは悔悛の勧めを受け入れるどころか、自説を擁護する弁明書をスペイン語で書いて教会に送りつけたといいます。とても豪快なエピソードですが、それにより彼は故郷のユダヤ人社会と決定的に袂(たもと)を分かつことになります。
三つ目の「ベネディクトゥス」はラテン語の名前です。スピノザは破門をきっかけにユダヤ人コミュニティへの帰属を捨て、哲学を通じて普遍的なものへ向かっていきます。そのことを象徴するのが、破門後に名乗ったこの名前です。省略して「ベネディクト」と書いている時もあります。
彼の本は、初学者でも読めるような簡素で平易なラテン語で書かれています。当時の書物はほとんどがラテン語で書かれました。ただし17世紀は自分の母語で書物を著すことが始まった時期でもあり、たとえばデカルトの『方法叙説』は、当時としては珍しくフランス語で書かれました。それぞれの母語が方言のようなものだとすれば、ラテン語はいわば標準語です。あるいは、現在、国際語と考えられている英語に近いといえるでしょう。
ただし、現在の英語が英語圏の母語であり、それを母語としている人たちの言語であるのに対し、当時のラテン語は日常用いられる言語ではなく、誰のものでもない言語であったという違いには留意する必要があります。誰のものでもない言語であるからこそ、普遍性を目指す学問にぴったりだったわけです。スピノザもまた、この誰のものでもない言語を使って、普遍性を目指す哲学に没頭していきます。「ベネディクトゥス」とは、そのような普遍性を目指し始めた哲学者スピノザの姿を象徴する名前であると言えるでしょう。
■『NHK100分de名著 スピノザ エチカ』より
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「ベントー」はポルトガル語の名前です。スピノザの祖先はスペイン系のユダヤ人で、15世紀の終わり、スペインでユダヤ人への迫害が強くなった際に一家で隣国ポルトガルに逃れています。貿易商だった父はポルトガルの生まれです。しかしポルトガルでも迫害は厳しくなり、一家はフランスを経由してオランダのアムステルダムに移住することになります。スピノザは、1632年11月、この街のユダヤ人居住区に誕生しました。
彼の肖像画を見ると、髪は黒く縮れ、瞳も黒く、肌の色も浅黒くて、イベリア半島の出身を窺わせます。家庭ではスペイン語とポルトガル語が使われていたためでしょう、オランダ生まれにもかかわらず、オランダ語はあまり得意ではありませんでした。スペイン語とポルトガル語を流暢に話し、フランス語も少し話せたようです。そんな彼の家庭内での呼び名がベントーでした。この名は彼の出自を示しています。
次の「バールーフ」はヘブライ語の名前です。ユダヤ人家庭といっても、伝統的な立場を重視する保守的で厳格な家から、「懐疑派」と呼ばれるリベラルな家まで多様性があったことは押さえておかねばなりません。スピノザはどちらかというとリベラル寄りの家で育ったようです。
「バールーフ」はつまり、彼の家族の信仰と結びついた名前であるわけですが、この信仰をめぐり、彼の人生における最初の重要な事件が1656年の夏に起こります。24歳の誕生日を迎えようとするスピノザが、ユダヤ教会から破門されるのです。
破門の理由とされる「悪しき行いと意見」の具体的内容ははっきりしません。しかし、スピノザのようなきわめて知的で批判的な精神を持った若者が、伝統に寄りかかるだけの保守的な教会のあり方に疑問を持ち、それに対して服従の態度を示すのを拒否するというのは容易に想像できます。教会側としては生意気な若者にちょっとお灸を据えてやろうという程度の軽い「破門」だったようです。ところがスピノザは悔悛の勧めを受け入れるどころか、自説を擁護する弁明書をスペイン語で書いて教会に送りつけたといいます。とても豪快なエピソードですが、それにより彼は故郷のユダヤ人社会と決定的に袂(たもと)を分かつことになります。
三つ目の「ベネディクトゥス」はラテン語の名前です。スピノザは破門をきっかけにユダヤ人コミュニティへの帰属を捨て、哲学を通じて普遍的なものへ向かっていきます。そのことを象徴するのが、破門後に名乗ったこの名前です。省略して「ベネディクト」と書いている時もあります。
彼の本は、初学者でも読めるような簡素で平易なラテン語で書かれています。当時の書物はほとんどがラテン語で書かれました。ただし17世紀は自分の母語で書物を著すことが始まった時期でもあり、たとえばデカルトの『方法叙説』は、当時としては珍しくフランス語で書かれました。それぞれの母語が方言のようなものだとすれば、ラテン語はいわば標準語です。あるいは、現在、国際語と考えられている英語に近いといえるでしょう。
ただし、現在の英語が英語圏の母語であり、それを母語としている人たちの言語であるのに対し、当時のラテン語は日常用いられる言語ではなく、誰のものでもない言語であったという違いには留意する必要があります。誰のものでもない言語であるからこそ、普遍性を目指す学問にぴったりだったわけです。スピノザもまた、この誰のものでもない言語を使って、普遍性を目指す哲学に没頭していきます。「ベネディクトゥス」とは、そのような普遍性を目指し始めた哲学者スピノザの姿を象徴する名前であると言えるでしょう。
■『NHK100分de名著 スピノザ エチカ』より
- 『スピノザ『エチカ』 2018年12月 (100分 de 名著)』
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