「ひたむきさ」が運命を変える
『赤毛のアン』では、アンのひたむきな姿勢が周囲の人を動かすエピソードがたびたび登場します。その一つを、脳科学者・作家・ブロードキャスターの茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが紹介します。
* * *
グリン・ゲイブルスで暮らすことになった翌年の2月、アンはダイアナの誕生日に招待されます。アヴォンリー討論クラブのコンサートを楽しんだあと、ダイアナの家に泊めてもらうという計画です。アンは、ダイアナとふたりで客用寝室に泊まることをとても楽しみにしています。大人と同じように扱ってもらえることを誇らしく思ったからです。
アンが参加しようとしているアヴォンリー討論クラブのコンサートは、図書館援助のために10セントの入場料をとる盛大なものでした。聖歌隊の歌や詩の暗誦もあれば、牧師さんの演説もある、地域ぐるみのイベントなのです。出演するアヴォンリーの若者たちは何週間も練習を重ねて本番に備えていますし、低学年の生徒たちは兄や姉の出演を楽しみにしています。
コンサートなどくだらないと考えるマリラと、アンの希望をかなえたいと考えるマシュウの間でひと悶着あるのですが、この時はマリラが折れて、アンははじめてのコンサート鑑賞に出かけることができます。
近年、教育において、生徒たち自らが音楽や演劇に取り組む「ドラマ・エデュケーション」が注目されています。子どもたちの自発的な表現力を育むアクティヴ・ラーニングの一貫としての効用があるとされているのです。一方、伝統的な学力を重視する意見もあります。『赤毛のアン』のなかの、コンサートをめぐるアンとマリラの意見の違いは、敎育観をめぐる対話だとも読めます。
アンにとってはどのプログラムも刺激的で、ほぼすべての演目に聞きほれるのですが、ギルバートが「ライン河畔のビンゲン」を暗誦した時だけは、同行者のひとりローダ・ミュレーから貸本を取り上げて読み始め、ギルバートを無視する態度を崩しません。ダイアナによると「『いま一人あり、そは妹(いもうと)にあらず』というところにきたとき、ギルバートはまっすぐあんたのほうを見たわよ」とのことで、ここでもギルバートのアンに対する感情を垣間見ることができます。
■ミス・バーリーの災難
コンサートが終わって、いよいよ客用寝室でのお泊まり会となるわけですが、ここで事件が起こります。アンとダイアナは、アンの思いつきでどちらが先にベッドに着くか競争することにします。細長い客間を駆け抜けたふたりが、寝室の戸口から同時にベッドに飛び乗ると、ベッドのなかから「ギャッ」という叫び声があがります。ダイアナの父親の伯母で70歳くらいの老嬢ミス・ジョセフィン・バーリーが客用寝室で寝ていたのでした。ミス・バーリーはシャーロットタウンに住むお金持ちで、もともとダイアナの家にやってくる予定でしたが、到着が早まって客用寝室に泊まっていることを、誰も子どもたちに伝言していなかったのです。ミス・バーリーはかんかんに怒って、ダイアナが望んでいる音楽のレッスン費用を支払ってくれる予定だったのに、それを取り下げると言い出します。
アンとしては自分の思いつきが原因でダイアナが不利益を被ることが申し訳なくてなりません。そこでアンは自ら謝罪にいくことに決めます。ミス・バーリーの部屋を訪ねると、彼女は腹立ちをぶつけるかのように編み針を動かしていました。アンは真っ青な顔で「大きな目に必死の勇気と恐怖(きょうふ)をたたえ」ながら、何もかも自分のせいで、だからダイアナは悪くないと、告白を始めます。
「とにかくダイアナを許して、音楽の勉強をやらせてあげてくださいな。ダイアナはやりたくて夢中(むちゅう)になっているんですもの、ミス・バーリー。なにかに夢中になっていて、それが思いどおりにならなかったときにはどんな気がするものか、あたしは知りつくしているんです。もし、だれかにおこらなくてはならないのなら、あたしにおこってくださいな。小さいときから──おこられることにはなれきっているもんで、ダイアナよりずっと楽にがまんできるんです」
アンの話を聞くうちに、ミス・バーリーの目からは怒りの色がほとんど消え、おもしろそうにまたたきはじめた、と書かれています。
アンが、客用寝室に泊まり慣れているあなたと違って、「そんな待遇(たいぐう)を一度も受けたことのない孤児(こじ)だったとしたら、どんなに失望するか、考えてもごらんなさい」と続けると、ミス・バーリーは声を立てて笑い始めました。怒りはすっかり消え、アンのことをたいそう気に入って、町に来たら訪ねてくるように、「とっときの客用寝室のベッドに寝かしてあげる」と約束してくれるのです。
このエピソードに限らず、アンは楽しい思いつきがどんどん浮かぶ子どもなので、失敗をしでかすことはよくあります。でもどんな時でも逃げ出すことなく真剣に立ち向かうので、相手がそのひたむきさに打たれて、運命を好転させることになるのです。
■『NHK100分de名著 モンゴメリ 赤毛のアン』より
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グリン・ゲイブルスで暮らすことになった翌年の2月、アンはダイアナの誕生日に招待されます。アヴォンリー討論クラブのコンサートを楽しんだあと、ダイアナの家に泊めてもらうという計画です。アンは、ダイアナとふたりで客用寝室に泊まることをとても楽しみにしています。大人と同じように扱ってもらえることを誇らしく思ったからです。
アンが参加しようとしているアヴォンリー討論クラブのコンサートは、図書館援助のために10セントの入場料をとる盛大なものでした。聖歌隊の歌や詩の暗誦もあれば、牧師さんの演説もある、地域ぐるみのイベントなのです。出演するアヴォンリーの若者たちは何週間も練習を重ねて本番に備えていますし、低学年の生徒たちは兄や姉の出演を楽しみにしています。
コンサートなどくだらないと考えるマリラと、アンの希望をかなえたいと考えるマシュウの間でひと悶着あるのですが、この時はマリラが折れて、アンははじめてのコンサート鑑賞に出かけることができます。
近年、教育において、生徒たち自らが音楽や演劇に取り組む「ドラマ・エデュケーション」が注目されています。子どもたちの自発的な表現力を育むアクティヴ・ラーニングの一貫としての効用があるとされているのです。一方、伝統的な学力を重視する意見もあります。『赤毛のアン』のなかの、コンサートをめぐるアンとマリラの意見の違いは、敎育観をめぐる対話だとも読めます。
アンにとってはどのプログラムも刺激的で、ほぼすべての演目に聞きほれるのですが、ギルバートが「ライン河畔のビンゲン」を暗誦した時だけは、同行者のひとりローダ・ミュレーから貸本を取り上げて読み始め、ギルバートを無視する態度を崩しません。ダイアナによると「『いま一人あり、そは妹(いもうと)にあらず』というところにきたとき、ギルバートはまっすぐあんたのほうを見たわよ」とのことで、ここでもギルバートのアンに対する感情を垣間見ることができます。
■ミス・バーリーの災難
コンサートが終わって、いよいよ客用寝室でのお泊まり会となるわけですが、ここで事件が起こります。アンとダイアナは、アンの思いつきでどちらが先にベッドに着くか競争することにします。細長い客間を駆け抜けたふたりが、寝室の戸口から同時にベッドに飛び乗ると、ベッドのなかから「ギャッ」という叫び声があがります。ダイアナの父親の伯母で70歳くらいの老嬢ミス・ジョセフィン・バーリーが客用寝室で寝ていたのでした。ミス・バーリーはシャーロットタウンに住むお金持ちで、もともとダイアナの家にやってくる予定でしたが、到着が早まって客用寝室に泊まっていることを、誰も子どもたちに伝言していなかったのです。ミス・バーリーはかんかんに怒って、ダイアナが望んでいる音楽のレッスン費用を支払ってくれる予定だったのに、それを取り下げると言い出します。
アンとしては自分の思いつきが原因でダイアナが不利益を被ることが申し訳なくてなりません。そこでアンは自ら謝罪にいくことに決めます。ミス・バーリーの部屋を訪ねると、彼女は腹立ちをぶつけるかのように編み針を動かしていました。アンは真っ青な顔で「大きな目に必死の勇気と恐怖(きょうふ)をたたえ」ながら、何もかも自分のせいで、だからダイアナは悪くないと、告白を始めます。
「とにかくダイアナを許して、音楽の勉強をやらせてあげてくださいな。ダイアナはやりたくて夢中(むちゅう)になっているんですもの、ミス・バーリー。なにかに夢中になっていて、それが思いどおりにならなかったときにはどんな気がするものか、あたしは知りつくしているんです。もし、だれかにおこらなくてはならないのなら、あたしにおこってくださいな。小さいときから──おこられることにはなれきっているもんで、ダイアナよりずっと楽にがまんできるんです」
『赤毛のアン』(新潮文庫/村岡花子訳)より
アンの話を聞くうちに、ミス・バーリーの目からは怒りの色がほとんど消え、おもしろそうにまたたきはじめた、と書かれています。
アンが、客用寝室に泊まり慣れているあなたと違って、「そんな待遇(たいぐう)を一度も受けたことのない孤児(こじ)だったとしたら、どんなに失望するか、考えてもごらんなさい」と続けると、ミス・バーリーは声を立てて笑い始めました。怒りはすっかり消え、アンのことをたいそう気に入って、町に来たら訪ねてくるように、「とっときの客用寝室のベッドに寝かしてあげる」と約束してくれるのです。
このエピソードに限らず、アンは楽しい思いつきがどんどん浮かぶ子どもなので、失敗をしでかすことはよくあります。でもどんな時でも逃げ出すことなく真剣に立ち向かうので、相手がそのひたむきさに打たれて、運命を好転させることになるのです。
■『NHK100分de名著 モンゴメリ 赤毛のアン』より
- 『モンゴメリ『赤毛のアン』 2018年10月 (100分 de 名著)』
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