つらい現実を乗り越えるアンの想像力

『赤毛のアン』の主人公、アン・シャーリーは、生後3か月で両親を亡くし、お手伝いに来ていた「トマスの小母さん」に引き取られます。小母さんの夫が亡くなり、孤立してしまったアンは、近所の家庭にベビーシッターとして引き取られますが、その家の主人が亡くなったことでいよいよ孤児院に入ることになりました。そんなつらい幼少時代を送ったアンを支えてきたのは、彼女自身の「想像力」だったのです。脳科学者・作家・ブロードキャスターの茂木健一郎(もぎ・けんいちろう)さんが、想像力を脳科学の観点から解説します。

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生後たった3か月で自分のものと呼べるものをすべて失ってしまったアンは、その後の11年間を想像力だけで生きてきたのです。しきりと「想像の余地(scope for imagination)」という言葉を口にしますが、想像を働かせることができる場所ならば楽しい空間に変えることができるのです。ブライト・リバーの駅で迎えが来なくて不安だった時も、桜の木に登って花のなかで眠るのは素敵だわ、と想像することで楽しく待つことができました。
マリラに「ありのままの事実」を話すように言われてしぶしぶ始めた身の上話も、ほんとうにありのままかどうかは怪しいところがあります。洞察力の鋭いマリラが「その人たちは(略)あんたによくしてくれたかね?」と尋ねると、アンは口ごもり、「二人ともそのつもりではいたのよ──できるだけ、よく親切にしてくれたかったってことはわかっているの。だからよくしてくれたい気持さえあれば、そのとおりにはいかなくてもかまわないわけですわね。ほら、二人とも苦労がたくさんあったでしょう?(略)でも、二人ともあたしによくしてくれたかったにはちがいないと思うの」と答えます。アンは、なにごとでもないように身の上を語りながら、ひどい扱いを受けたことには言及しなかったのです。
リンド夫人へ怒りを爆発させた時に「トマスの小母(おば)さんのよっぱらった旦那(だんな)さんがとても憎(にく)らしかったときよりも」と口走っていることから、いやな目に遭(あ)わされたに違いないのですが、そういう扱いを受けたことをアンがあえて語ることはありません。マリラにできれば楽しい話をしたいという気持ちもあるし、つらい体験は想像力を駆使して別のものに転換させていたのでしょう。
人間の脳の働きから考えると、次のようなことが言えます。「エマージェンシー(emergency)」(=危機)から「エマージェンス(emergence)」(=創発)が生まれる。アンが孤児院へ逆戻りする運命と知った時に「コーデリアと呼んでください」と言い出したり、リンド夫人への謝罪に行く途中で突然うきうきし始める様子を見ると、まさにこれだ、と思います。脳において情動反応の処理を司っているのは扁桃体(へんとうたい)ですが、好悪・快不快といった感情は表裏一体のものなので、ちょっと見方を変えることで、マイナスの感情をプラスに変えることができるのです。その時必要なのが想像力ですから、アンはつらいことがあるたびに、想像力をフル回転させて生きてきたのだと思います。
また、アンの特徴のひとつに「歓喜の白路」「輝く湖水」「雪の女王」「ボニー」などと、なんにでも名前をつけたがる習性がありますが、気に入ったすてきなものに想像力で肉づけをし、さらに自分で名づけをすることで、それがアン自身のもの、アンの世界に属する一員のように感じられるのかもしれません。アヴォンリーの村の美しさに気づくのは、アンが島外から来たことも大きな要因のひとつでしょう。作者のモンゴメリは、島外で暮らした経験がありますので、故郷のプリンス・エドワード島をメタ認知、つまり外の視点で見ることができた。そのことが活かされているように思います。
おそらく村の人々だって、並木道にしてもバーリーの池にしても、その美しさに無頓着ではなかったと思います。気づいてはいたけれど当たり前の景色にすぎなかった。ところがよそからやって来たアンがその感激をあらん限りの言葉を駆使して表現するおかげで、マシュウにもマリラにも見慣れた景色があざやかに色づき、いきいきと呼吸を開始するように見えた。そのようにして、アンの想像力は、周囲の人にも影響を与えていくことになるのです。
アンの存在自体が、インスピレーションの源になって行きます。アンをめぐる登場人物たちにとっても、私たち読者にとっても。
■『NHK100分de名著 モンゴメリ 赤毛のアン』より

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