ウンベルト・エーコが48歳で小説家デビューした理由
ウンベルト・エーコは48歳のとき、『薔薇の名前』で突如小説家デビューを果たします。彼はなぜ小説を書いたのでしょうか。イタリア文学研究者で東京外国語大学名誉教授の和田忠彦(わだ・ただひこ)さんが解説します。
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大学を出たエーコはイタリア放送協会に入ります。かれはそこで1960年代前半を生きるわけですが、60年代前半とはイタリアにとって、戦前の未来派以来のアヴァンギャルド興隆期に次ぐ二度目の前衛芸術の時代でした。その中心に、エーコという若手の放送局員がいた。現代音楽、視覚芸術、文学……。彼がつくった文化番組は、当時のヨーロッパでも最先端を行くものでした。たとえば、二十世紀現代音楽を代表する存在となる、当時はまだ若い、ルチャーノ・ベリオやピエール・ブーレーズを起用して、次つぎと実験的番組を制作したのです。
エーコは学生時代、中世の神学や美学の研究の世界にいました。一方で、子どものころからコミックスに親しみ、物語が大好きで楽器の演奏も楽しみました(エーコはリコーダーの、とりわけバロック音楽の名手でした)。そして放送業界に就職してからは、勃興期のテレビ番組制作の現場で、表現やコミュニケーションに関わるさまざまな問題に向き合った。そんななかでエーコは、自分の幅広い興味の対象というものが、実は「記号」という装置を導入することによって、そのすべてに同じように対峙できるようになると気づくのです。
たとえば、それまで学問の対象とは見なされていなかった漫画や大衆小説ですが、エーコは、スヌーピーを生んだアメリカの漫画家チャールズ・シュルツは詩人だと感じていた。みずから提案してその版権獲得にまで乗りだしたくらい魅せられていた。そしてイタリア版『ライナス(LINUS)』の創刊号に、シュルツへの愛情にあふれた長い論稿を寄せるのです。このようにして、誰も手を付けようとはしなかった分野を考察の対象とし、出版など実践に直接関わりながら考察を重ねていったのです。そのときの鍵が記号でした。つまりコミックスを記号として読む、音楽を記号として聴く、絵画を記号として見る。その実践の積み重ねが、最終的にエーコ自身に、記号についての講義を大学で講じるという選択をさせた(それに応えてボローニャ大学も講座を開設した)と考えることができるのではないかと思います。このころエーコは、記号こそが、人類の知をかたちづくる「巨大な穹窿(ドーム)」であると見極めたのだと言ってもかまいません。
その後、世界的な記号学者になったエーコが、48歳にして小説家デビューを果たします。なぜエーコは小説を書いたのか。そのヒントは、『薔薇の名前』の原書にあります。学者であるエーコが初の小説を出すとなったとき、友人でもある版元の社主からは「売れて三千部だろう」と言われていたそうです(それがなんと、世界で五千万部以上を売り上げる桁外れの大ロング・ベストセラーとなったわけです)。どうせ売れないのなら、せめて少しでも売り上げに貢献できればと、本のカバーのソデ(表紙の内側に折り込んだ部分)に、エーコ自身が率先して惹句(じゃっく)をしたためました。そこにエーコは、自分がなぜこの小説を書いたかについて、こう記しています─「理論化できないことは物語らなければならない」。この惹句こそ、小説という虚構の世界によってしか表現し得ない「物語」というものへとエーコを衝き動かしたものの正体にほかなりません。たとえ論理的あるいは科学的に解明不可能なことであっても、現実の世界と異なるもうひとつの現実のなかでなら「明晰」に言い表せるのだとすれば、その可能性に賭けるべきだと決断を下したのです。
つまり、記号論の泰斗であるウンベルト・エーコという人間が、学術論文では書ききれない、あるいは論じきれないことに突き当たった。それをどのようなかたちで読者に向けて伝えればよいか──。そのとき出てきたのが、物語をつくるということ、すなわち小説を書くということだったのです。
■『NHK100分de名著 ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』より
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大学を出たエーコはイタリア放送協会に入ります。かれはそこで1960年代前半を生きるわけですが、60年代前半とはイタリアにとって、戦前の未来派以来のアヴァンギャルド興隆期に次ぐ二度目の前衛芸術の時代でした。その中心に、エーコという若手の放送局員がいた。現代音楽、視覚芸術、文学……。彼がつくった文化番組は、当時のヨーロッパでも最先端を行くものでした。たとえば、二十世紀現代音楽を代表する存在となる、当時はまだ若い、ルチャーノ・ベリオやピエール・ブーレーズを起用して、次つぎと実験的番組を制作したのです。
エーコは学生時代、中世の神学や美学の研究の世界にいました。一方で、子どものころからコミックスに親しみ、物語が大好きで楽器の演奏も楽しみました(エーコはリコーダーの、とりわけバロック音楽の名手でした)。そして放送業界に就職してからは、勃興期のテレビ番組制作の現場で、表現やコミュニケーションに関わるさまざまな問題に向き合った。そんななかでエーコは、自分の幅広い興味の対象というものが、実は「記号」という装置を導入することによって、そのすべてに同じように対峙できるようになると気づくのです。
たとえば、それまで学問の対象とは見なされていなかった漫画や大衆小説ですが、エーコは、スヌーピーを生んだアメリカの漫画家チャールズ・シュルツは詩人だと感じていた。みずから提案してその版権獲得にまで乗りだしたくらい魅せられていた。そしてイタリア版『ライナス(LINUS)』の創刊号に、シュルツへの愛情にあふれた長い論稿を寄せるのです。このようにして、誰も手を付けようとはしなかった分野を考察の対象とし、出版など実践に直接関わりながら考察を重ねていったのです。そのときの鍵が記号でした。つまりコミックスを記号として読む、音楽を記号として聴く、絵画を記号として見る。その実践の積み重ねが、最終的にエーコ自身に、記号についての講義を大学で講じるという選択をさせた(それに応えてボローニャ大学も講座を開設した)と考えることができるのではないかと思います。このころエーコは、記号こそが、人類の知をかたちづくる「巨大な穹窿(ドーム)」であると見極めたのだと言ってもかまいません。
その後、世界的な記号学者になったエーコが、48歳にして小説家デビューを果たします。なぜエーコは小説を書いたのか。そのヒントは、『薔薇の名前』の原書にあります。学者であるエーコが初の小説を出すとなったとき、友人でもある版元の社主からは「売れて三千部だろう」と言われていたそうです(それがなんと、世界で五千万部以上を売り上げる桁外れの大ロング・ベストセラーとなったわけです)。どうせ売れないのなら、せめて少しでも売り上げに貢献できればと、本のカバーのソデ(表紙の内側に折り込んだ部分)に、エーコ自身が率先して惹句(じゃっく)をしたためました。そこにエーコは、自分がなぜこの小説を書いたかについて、こう記しています─「理論化できないことは物語らなければならない」。この惹句こそ、小説という虚構の世界によってしか表現し得ない「物語」というものへとエーコを衝き動かしたものの正体にほかなりません。たとえ論理的あるいは科学的に解明不可能なことであっても、現実の世界と異なるもうひとつの現実のなかでなら「明晰」に言い表せるのだとすれば、その可能性に賭けるべきだと決断を下したのです。
つまり、記号論の泰斗であるウンベルト・エーコという人間が、学術論文では書ききれない、あるいは論じきれないことに突き当たった。それをどのようなかたちで読者に向けて伝えればよいか──。そのとき出てきたのが、物語をつくるということ、すなわち小説を書くということだったのです。
■『NHK100分de名著 ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』より
- 『ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』 2018年9月 (100分 de 名著)』
- NHK出版
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