理念は人を殺す
アルベール・カミュの小説『ペスト』では、ペストの発生により閉鎖されたアルジェリアの港町オランにおける人々の様子が描かれます。二度の大戦とスペイン内戦を経験したカミュ。作中には、そんな艱難辛苦を乗り越えたカミュの思想が色濃く反映されている箇所があります。学習院大学教授の中条省平(ちゅうじょう・しょうへい)さんが「非常に重要な箇所」を引きながら解説します。
* * *
恋人のいるパリへどうしても帰りたい記者のランベールは、配給物資の密輸に関わっているコタールに頼んで、スペイン系の怪しげな組織に属するチンピラたちの手配で非合法に町を脱出しようとしていました。ところがその計画は、あと少しというところで何度も失敗します。
疲れはてたランベールは、ある晩、医師のリウーと保健隊を率いるタルーを部屋に招きます。
「いいですか、先生」とランベールはいった。「僕もあなたたちの保健隊のことはずいぶん考えました。僕があなたたちと一緒にやらないのは、僕なりの理由があるからです。ほかのことなら、今でも体を張ってできるつもりです。スペイン戦争もやりましたから」
「どちらの側で?」とタルーが尋ねた。
「負けたほうです。しかし、それ以来、僕はすこし考えたんです」
「何を?」とタルー。
「勇気についてです。いまも、僕は人間が偉大な行為をなしうると知っています。しかし、その人間が偉大な感情をもてないなら、僕には興味のない人間です」
ここに至って、恋人に会いたい一心で、能天気に行動しているようにしか見えなかったランベールという人間が、じつは過去に戦争という災厄のなかで、どうやら地獄の経験をしたらしいことが分かってきます。しかも前回述べたように、スペイン内戦はカミュにとっても、母の祖国で起きたきわめて重大な出来事でした。その結果、ランベールは、人間がいかに偉大な行動をなしえたとしても、その偉大さが感情によって裏打ちされていなかったら意味がないと考えるようになりました。彼は執拗なまでに抽象や理念の世界に反発して、自分の感情の世界にこだわります。なぜなら、おそらく彼はスペイン内戦で、感情を圧殺したヒーローが理念のために人殺しをする事例を数多く目にしたからでしょう。負けた左派の人民戦線側だって、勝った右派のフランコ側の兵士をたくさん殺しているわけです。たとえそれが、偉大な思想のために敵と戦うヒロイックな行為だったとしても、人間が人間を殺すことは許されざる悪だという原初の感情にたち返ることができなければ、どんなに恐ろしい悲劇を生むかを彼は知ってしまったのです。
「それでは、タルー、あなたは愛のために死ぬことができますか?」
「分からない。でも、今は死ねない気がするな」
「ですよね。ところが、あなたは一個の観念のためには死ねるんです。その様子が目に見えるようですよ。でも僕は、観念のために死ぬ連中にはもううんざりなんです。僕はヒロイズムを信じません。英雄になるのは容易なことだと知っているし、それが人殺しをおこなうことだと分かったからです。僕が心を引かれるのは、愛するもののために生き、また死ぬことです」
ここは非常に重要な箇所です。理念は人を殺すという事実が述べられているからです。そのことはスペイン内戦のときのフランコ側も人民戦線側も同じで、戦争をおこなうかぎりそこからは脱却できない。ですから、ランベールがヒロイックな理念ではなく、「愛するもののために生き、また死ぬ」というのは、まず感情とともに生きることであり、死を受けいれるとしても、そのようにして生きることと表裏一体でなければならない、ということです。
戦争というものは、かならず理念のために戦うことを建前とします。たとえ本音は国家の領土拡大、経済的富の収奪のためであっても、表向きは民族の解放のためとか、人民の平等のためとか、革命のためとか、場合によっては平和や自由のためとさえいいます。そういう意味でも、理念と理念のぶつかりあう戦争においては、理念だけを頼りにしていると人間は歯止めが利かなくなるということです。理念が人殺しを許容し、さらに、人も殺し自分の死も辞さないという英雄的行為が、その理念を強化し、美化していく。そのことへのランベールの恐怖と嫌悪感は、もはや彼の骨肉と化しているのです。
そんなランベールに対して、リウーはいいます。
「今回の災厄では、ヒロイズムは問題じゃないんです。問題は、誠実さということです。こんな考えは笑われるかもしれないが、ペストと戦う唯一の方法は、誠実さです」
「誠実さって、どういうことです?」とランベールは急に真剣な顔になって尋ねた。
「一般的にはどういうことか知りません。しかし、私の場合は、自分の仕事を果たすことだと思っています」
これは、状況を見きわめた上で、ただ自分にできることをするという、地に足の着いた真っ当な倫理です。その倫理によって、ヒロイズムが陥る危険を回避するために、リウーは自分なりの考えを提示し、ランベールの逡巡と疑念に、回答をあたえました。リウーの言葉は強い説得力をもって響きます。それを聞いて心がゆらいだランベールは、リウーが仕事に戻ったあと、タルーから、リウーの妻が遠くの療養所に行ったまま離ればなれになっていると聞きます。まさにランベールとリウーは同じ境遇だったのです。そのことがさらにランベールの心を動かし、翌朝彼はリウーに電話をかけて、こういいます。
「僕もあなたたちと一緒に働かせてもらえますか、町を出る方法が見つかるまで?」
こうしてランベールはついに、ペストと戦う保健隊の一員となったのでした。
この小説は群像劇であると同時に、ディスカッション・ドラマとしても非常に優れています。それはカミュが劇作家でもあることと大いに関係があるでしょう。言葉と言葉がぶつかりあう対話劇、ダイナミックな思想の対決のドラマを、カミュはじつに巧みに描いています。それぞれの山場がモノローグではなく対話になっていて、その対話が人物の心理と行動を先へ先へとつき動かすダイナミズムの源泉になっているのです。
いまの時代は、言葉というものが、何かを語るためではなく、何も語らないための口実として発せられるような状況になっています。「ポスト・トゥルース(真実の終末以後)」の時代などといって、何をいっても無駄、本当のことなどない、といった言葉への無力感が蔓延しています。とくに日本では、共同体内部での和や以心伝心を大事にする風土のなかで、はっきりした言葉で考えの交換をおこなうことを避けて、はじめから言葉の無力さを許容してしまう傾向があります。
「言わなくても分かる」という感覚は、「言っても分からない」という諦めに容易に転化します。その意味でも、「言わなければ分からない」という、言葉の重要性を徹底して信じる点で、『ペスト』という小説はいまの日本人にとって大きな意味をもつ小説だと思います。対立があったときに、それを対立のままで終わらせず、対立の一歩先にありうる新たな状況へと進めるものが対話です。そんな対話の重要な働きを、自然な言葉のやりとりのなかで描きだしているのは、この小説のけっして読みのがせない美点ではないでしょうか。
■『NHK100分de名著 アルベール・カミュ ペスト』より
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恋人のいるパリへどうしても帰りたい記者のランベールは、配給物資の密輸に関わっているコタールに頼んで、スペイン系の怪しげな組織に属するチンピラたちの手配で非合法に町を脱出しようとしていました。ところがその計画は、あと少しというところで何度も失敗します。
疲れはてたランベールは、ある晩、医師のリウーと保健隊を率いるタルーを部屋に招きます。
「いいですか、先生」とランベールはいった。「僕もあなたたちの保健隊のことはずいぶん考えました。僕があなたたちと一緒にやらないのは、僕なりの理由があるからです。ほかのことなら、今でも体を張ってできるつもりです。スペイン戦争もやりましたから」
「どちらの側で?」とタルーが尋ねた。
「負けたほうです。しかし、それ以来、僕はすこし考えたんです」
「何を?」とタルー。
「勇気についてです。いまも、僕は人間が偉大な行為をなしうると知っています。しかし、その人間が偉大な感情をもてないなら、僕には興味のない人間です」
ここに至って、恋人に会いたい一心で、能天気に行動しているようにしか見えなかったランベールという人間が、じつは過去に戦争という災厄のなかで、どうやら地獄の経験をしたらしいことが分かってきます。しかも前回述べたように、スペイン内戦はカミュにとっても、母の祖国で起きたきわめて重大な出来事でした。その結果、ランベールは、人間がいかに偉大な行動をなしえたとしても、その偉大さが感情によって裏打ちされていなかったら意味がないと考えるようになりました。彼は執拗なまでに抽象や理念の世界に反発して、自分の感情の世界にこだわります。なぜなら、おそらく彼はスペイン内戦で、感情を圧殺したヒーローが理念のために人殺しをする事例を数多く目にしたからでしょう。負けた左派の人民戦線側だって、勝った右派のフランコ側の兵士をたくさん殺しているわけです。たとえそれが、偉大な思想のために敵と戦うヒロイックな行為だったとしても、人間が人間を殺すことは許されざる悪だという原初の感情にたち返ることができなければ、どんなに恐ろしい悲劇を生むかを彼は知ってしまったのです。
「それでは、タルー、あなたは愛のために死ぬことができますか?」
「分からない。でも、今は死ねない気がするな」
「ですよね。ところが、あなたは一個の観念のためには死ねるんです。その様子が目に見えるようですよ。でも僕は、観念のために死ぬ連中にはもううんざりなんです。僕はヒロイズムを信じません。英雄になるのは容易なことだと知っているし、それが人殺しをおこなうことだと分かったからです。僕が心を引かれるのは、愛するもののために生き、また死ぬことです」
ここは非常に重要な箇所です。理念は人を殺すという事実が述べられているからです。そのことはスペイン内戦のときのフランコ側も人民戦線側も同じで、戦争をおこなうかぎりそこからは脱却できない。ですから、ランベールがヒロイックな理念ではなく、「愛するもののために生き、また死ぬ」というのは、まず感情とともに生きることであり、死を受けいれるとしても、そのようにして生きることと表裏一体でなければならない、ということです。
戦争というものは、かならず理念のために戦うことを建前とします。たとえ本音は国家の領土拡大、経済的富の収奪のためであっても、表向きは民族の解放のためとか、人民の平等のためとか、革命のためとか、場合によっては平和や自由のためとさえいいます。そういう意味でも、理念と理念のぶつかりあう戦争においては、理念だけを頼りにしていると人間は歯止めが利かなくなるということです。理念が人殺しを許容し、さらに、人も殺し自分の死も辞さないという英雄的行為が、その理念を強化し、美化していく。そのことへのランベールの恐怖と嫌悪感は、もはや彼の骨肉と化しているのです。
そんなランベールに対して、リウーはいいます。
「今回の災厄では、ヒロイズムは問題じゃないんです。問題は、誠実さということです。こんな考えは笑われるかもしれないが、ペストと戦う唯一の方法は、誠実さです」
「誠実さって、どういうことです?」とランベールは急に真剣な顔になって尋ねた。
「一般的にはどういうことか知りません。しかし、私の場合は、自分の仕事を果たすことだと思っています」
これは、状況を見きわめた上で、ただ自分にできることをするという、地に足の着いた真っ当な倫理です。その倫理によって、ヒロイズムが陥る危険を回避するために、リウーは自分なりの考えを提示し、ランベールの逡巡と疑念に、回答をあたえました。リウーの言葉は強い説得力をもって響きます。それを聞いて心がゆらいだランベールは、リウーが仕事に戻ったあと、タルーから、リウーの妻が遠くの療養所に行ったまま離ればなれになっていると聞きます。まさにランベールとリウーは同じ境遇だったのです。そのことがさらにランベールの心を動かし、翌朝彼はリウーに電話をかけて、こういいます。
「僕もあなたたちと一緒に働かせてもらえますか、町を出る方法が見つかるまで?」
こうしてランベールはついに、ペストと戦う保健隊の一員となったのでした。
この小説は群像劇であると同時に、ディスカッション・ドラマとしても非常に優れています。それはカミュが劇作家でもあることと大いに関係があるでしょう。言葉と言葉がぶつかりあう対話劇、ダイナミックな思想の対決のドラマを、カミュはじつに巧みに描いています。それぞれの山場がモノローグではなく対話になっていて、その対話が人物の心理と行動を先へ先へとつき動かすダイナミズムの源泉になっているのです。
いまの時代は、言葉というものが、何かを語るためではなく、何も語らないための口実として発せられるような状況になっています。「ポスト・トゥルース(真実の終末以後)」の時代などといって、何をいっても無駄、本当のことなどない、といった言葉への無力感が蔓延しています。とくに日本では、共同体内部での和や以心伝心を大事にする風土のなかで、はっきりした言葉で考えの交換をおこなうことを避けて、はじめから言葉の無力さを許容してしまう傾向があります。
「言わなくても分かる」という感覚は、「言っても分からない」という諦めに容易に転化します。その意味でも、「言わなければ分からない」という、言葉の重要性を徹底して信じる点で、『ペスト』という小説はいまの日本人にとって大きな意味をもつ小説だと思います。対立があったときに、それを対立のままで終わらせず、対立の一歩先にありうる新たな状況へと進めるものが対話です。そんな対話の重要な働きを、自然な言葉のやりとりのなかで描きだしているのは、この小説のけっして読みのがせない美点ではないでしょうか。
■『NHK100分de名著 アルベール・カミュ ペスト』より
- 『アルベール・カミュ『ペスト』 2018年6月 (100分 de 名著)』
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