生きがいを「与える」ことはできない

神谷美恵子が『生きがいについて』を書き始めるきっかけになったのは、岡山県にある長島愛生園というハンセン病の国立療養所に精神科医として通い始めたことでした。ここで彼女は、人間の姿をした「生きがい」の顕現と、今、まさに「生きがい」を求めつつある人々に出会っていきます。
神谷は「生きがい」は誰も他者に与えることができない、それと同時に潜在的にすべての人の人生に存在していると考えました。批評家・随筆家の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんが、神谷のそうした考え方について解説します。

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神谷は「生きがい」とは何かを考えるときの導線となるような四つの問いを挙げています。
一 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
二  自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか。
三 以上あるいはその他から判断して自分は生きている資格があるか。
四 一般に人生というものは生きるのに値するものであるか。
これらを言い換えてみると少し理解の窓口が広がるかもしれません。
一  わたしは何かのため、誰かのために必要とされているか。(求められること)
二  わたしだけの生きていく目標は何か。それに従っているか。(固有の意味)
三  わたしは生きている資格があるか。(世の中から認められていること)
四  人生は生きるに値するものなのか。(普遍的な生の意味にふれていること)
四つの軸を一から順に見ていくと、個から普遍へ、「わたしは」から「人生は」へ、と階段を昇るように変化していくのが分かります。
理性や知性によって考えるとき、私たちは、普遍から個の問題へたどり着こうとします。たとえば、人間は死ぬ、と考え、したがって自分もいつか死ぬのだ、と考える。こうした考え方でたどり着けるものもありますが、神谷がここで提案しているのは少し異なる道程です。
それは、「私」という不安定な、ときに普遍性を欠くような存在の、生の決定的実感から出発することを促す道行きです。一つの定まった「生きがい」が存在するのであれば、論理を探究するという方法でもよいのかもしれません。しかし、神谷はここで、それらとは異なる道を探そうとします。彼女はその道行きを従来の意味での哲学だけでなく、詩のちからに助けられつつ、考えを深めていきます。この本で、彼女が詩を多く引用しているのはそのためです。「生きがい」を見失った人が何を求めているのかをめぐって、彼女はこう記しています。
こういう思いにうちのめされているひとに必要なのは単なる慰めや同情や説教ではない。もちろん金や物だけでも役に立たない。彼はただ、自分の存在はだれかのために、何かのために必要なのだ、ということを強く感じさせるものを求めてあえいでいるのである。
他者が推察して、その人に必要だろうと思われるものを与えても、うまくいかない。喉が渇いている人には水を差しだすことができる。しかし、「生きがい」というもっとも心の深いところで生じている「渇き」は、その本人の心から湧き出るものでなくては癒すことができない、というのです。「生きがい」を発見するとは、涸れることのないいのちの泉を発見することだといえるかもしれません。
いのちの泉、「生きがい」の源泉は、誰も他者に与えることはできない、これは厳粛な事実で、一見すると大きな困難があるように見えますが、翻ってみると、これほど大きな希望はないようにも思えてきます。
デカルトは『方法序説』で、良識こそ、万人に平等に与えられたものではない
かと述べています。道元は、仏性もまた、すべての人に内在している、という。二人は時代も、分野も異なるところで生きた人ですが、人間を生かす根源的なはたらきが、すべての人にすでに付与されていると考えている点では一致しています。神谷もまた、「生きがい」は、潜在的にすべての人の人生に存在していると考えます。
ここではそれを「生きがい」の種子と呼ぶことにします。デカルトも道元も、問題は内在しているものをどう開花させるかにあると考えていました。それは神谷も同じなのです。「生きがい」の発見とは、朽ちることのない「生きがい」の花を咲かせることにほかならないのです。
■『NHK100分de名著 神谷美恵子 生きがいについて』より

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神谷美恵子『生きがいについて』 2018年5月 (100分 de 名著)
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