『法華経』成立の背景
『法華経』は、釈尊(しゃくそん/お釈迦〈しゃか〉さま)が亡くなって500年ほど経った頃(1世紀末〜3世紀初頭)に、インド北西部で編纂(へんさん)されたと考えられています。『法華経』の説く思想は、この時代、特に当時の仏教界が直面していた課題と密接に関係しています。そこで、まずはインド仏教史の概略からお話しすることにしましょう。これを知っておくと、『法華経』という経典の位置づけが分かり、内容もぐっと理解しやすくなります。解説してくださるのは、仏教思想研究家の植木雅俊(うえき・まさとし)さんです。
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最初は原始仏教の時代です。原始仏教とは初期仏教ともいい、釈尊在世(中村元〈はじめ〉先生によると、前463〜前383)の頃、および直弟子たちがまだ生きている頃の仏教を指します。
紀元前3世紀頃、インド亜大陸をほぼ統一したアショーカ王の命により、息子(あるいは弟)のマヒンダによってセイロン(現スリランカ)に仏教が伝えられました。アショーカ王の妻の出身地が西インドで、マヒンダはそこで話されていたパーリ語の仏典をセイロンに伝えたため、ここにパーリ語で原始仏教が保存されることになりました。釈尊の生の言葉に近いものが残ったわけで、これは後世の我々にとって本当に幸運なことでした。
釈尊滅後100年ほどが経った頃、紀元前3世紀に第二回仏典結集(けつじゅう)が行なわれ、そこで仏教教団は保守的な上座部(じょうざぶ)と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分裂します(根本分裂)。それがさらに枝分かれし、二十の部派にまで広がります(枝末〈しまつ〉分裂)。その中で最も有力だったのが、説一切有部(せついっさいうぶ)という部派です。権威主義的で資金も豊富であり、後に「小乗仏教」と批判されるのはこの部派のことを指します。小乗仏教という言葉は、一般的には大乗仏教以外の仏教すべてというようなかなり曖昧(あいまい)な使われ方がされていますが、龍樹の著とされる『大智度論(だいちどろん)』によると、厳密にはこの説一切有部のことを意味しています。以下、このテキストで小乗仏教と言う場合はこの説一切有部のことを指します。
こうして、紀元前3世紀末頃までに、仏教は説一切有部を最有力とする部派仏教の時代に入りました。そして前2世紀頃、「覚(さと)りが確定した人」を意味する「菩薩(ぼさつ)」の概念が現れます。これは覚りを得る前、ブッダになる前の釈尊を意味するものとして、小乗仏教が発明した言葉です。釈尊滅後、その言動を記したさまざまな仏伝が書かれるようになるわけですが、「あれだけ偉大な釈尊なのだから、過去にはきっとはるかな長い時間をかけて修行されたに違いない」という思いから、長い修行のある時点で、燃燈仏(ねんとうぶつ/ディーパンカラ)という仏が「あなたは将来、仏になるだろう」と釈尊に予言(授記〈じゅき〉)した、という話が作られました。そこで、仏になることは確定したが、まだ仏になっていない状態の釈尊を何と呼ぶかということで、覚り(bodhi〈ボーディ〉)と人(sattva〈サットヴァ〉)をつなげてbodhi-sattva(ボーディサットヴァ/菩提薩埵〈ぼだいさった〉、略して菩薩)とし、「覚りが確定した人」という意味の言葉ができたのです。
これに対して、紀元前後頃、菩薩という言葉の意味を塗り替える動きが興(おこ)ります。すなわち、bodhi-sattva を「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」と読み替え、覚りを求める人はだれでも菩薩であると考える大乗仏教が興(おこ)ったのです。小乗仏教では菩薩と呼べる存在は釈尊と未来仏の弥勒(みろく/マイトレーヤ)だけでした。それをあらゆる人に解放したわけです。
しかし、大乗仏教が興ったからと言って小乗仏教がなくなったわけではありません。勢力としてはむしろ小乗仏教の方が大きく、大乗の方はまだまだ小さな勢力でした。こうした大小併存の時代の中で、まず、大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを痛烈に批判する『般若経(はんにゃきょう)』が成立します。そして紀元1〜2世紀頃には、保守的で権威主義的な部派仏教を糾弾する『維摩経』が成立しました。
こうした流れに対し、紀元1〜3世紀頃、小乗と大乗の対立を止揚(しよう/アウフヘーベン)する、対立を対立のままで終わらせず、両者を融合させてすべてを救うことを主張するお経が成立しました。それが『法華経』なのです。
■『NHK100分de名著 法華経』より
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最初は原始仏教の時代です。原始仏教とは初期仏教ともいい、釈尊在世(中村元〈はじめ〉先生によると、前463〜前383)の頃、および直弟子たちがまだ生きている頃の仏教を指します。
紀元前3世紀頃、インド亜大陸をほぼ統一したアショーカ王の命により、息子(あるいは弟)のマヒンダによってセイロン(現スリランカ)に仏教が伝えられました。アショーカ王の妻の出身地が西インドで、マヒンダはそこで話されていたパーリ語の仏典をセイロンに伝えたため、ここにパーリ語で原始仏教が保存されることになりました。釈尊の生の言葉に近いものが残ったわけで、これは後世の我々にとって本当に幸運なことでした。
釈尊滅後100年ほどが経った頃、紀元前3世紀に第二回仏典結集(けつじゅう)が行なわれ、そこで仏教教団は保守的な上座部(じょうざぶ)と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分裂します(根本分裂)。それがさらに枝分かれし、二十の部派にまで広がります(枝末〈しまつ〉分裂)。その中で最も有力だったのが、説一切有部(せついっさいうぶ)という部派です。権威主義的で資金も豊富であり、後に「小乗仏教」と批判されるのはこの部派のことを指します。小乗仏教という言葉は、一般的には大乗仏教以外の仏教すべてというようなかなり曖昧(あいまい)な使われ方がされていますが、龍樹の著とされる『大智度論(だいちどろん)』によると、厳密にはこの説一切有部のことを意味しています。以下、このテキストで小乗仏教と言う場合はこの説一切有部のことを指します。
こうして、紀元前3世紀末頃までに、仏教は説一切有部を最有力とする部派仏教の時代に入りました。そして前2世紀頃、「覚(さと)りが確定した人」を意味する「菩薩(ぼさつ)」の概念が現れます。これは覚りを得る前、ブッダになる前の釈尊を意味するものとして、小乗仏教が発明した言葉です。釈尊滅後、その言動を記したさまざまな仏伝が書かれるようになるわけですが、「あれだけ偉大な釈尊なのだから、過去にはきっとはるかな長い時間をかけて修行されたに違いない」という思いから、長い修行のある時点で、燃燈仏(ねんとうぶつ/ディーパンカラ)という仏が「あなたは将来、仏になるだろう」と釈尊に予言(授記〈じゅき〉)した、という話が作られました。そこで、仏になることは確定したが、まだ仏になっていない状態の釈尊を何と呼ぶかということで、覚り(bodhi〈ボーディ〉)と人(sattva〈サットヴァ〉)をつなげてbodhi-sattva(ボーディサットヴァ/菩提薩埵〈ぼだいさった〉、略して菩薩)とし、「覚りが確定した人」という意味の言葉ができたのです。
これに対して、紀元前後頃、菩薩という言葉の意味を塗り替える動きが興(おこ)ります。すなわち、bodhi-sattva を「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」と読み替え、覚りを求める人はだれでも菩薩であると考える大乗仏教が興(おこ)ったのです。小乗仏教では菩薩と呼べる存在は釈尊と未来仏の弥勒(みろく/マイトレーヤ)だけでした。それをあらゆる人に解放したわけです。
しかし、大乗仏教が興ったからと言って小乗仏教がなくなったわけではありません。勢力としてはむしろ小乗仏教の方が大きく、大乗の方はまだまだ小さな勢力でした。こうした大小併存の時代の中で、まず、大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを痛烈に批判する『般若経(はんにゃきょう)』が成立します。そして紀元1〜2世紀頃には、保守的で権威主義的な部派仏教を糾弾する『維摩経』が成立しました。
こうした流れに対し、紀元1〜3世紀頃、小乗と大乗の対立を止揚(しよう/アウフヘーベン)する、対立を対立のままで終わらせず、両者を融合させてすべてを救うことを主張するお経が成立しました。それが『法華経』なのです。
■『NHK100分de名著 法華経』より
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