病棟の恋–病臥する歌人が詠んだ恋の歌

さまざまな恋の歌を「未来」選者の黒瀬珂瀾(くろせ・からん)さんが紹介する「恋のよみかた・うたいかた」。2月号は「病棟の恋」と題し、病を得た歌人が紡ぎ出した切ない歌の数々をお送りします。

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草原にありし幾つもの水たまり光ある中に君帰れかし

河野愛子『木の間の道』


作者が眺めている草原には幾つもの水たまりがあり、陽(ひ)の光を輝かしく反射しています。「君」はどうか健やかに光の中へ帰ってください、という思いの歌です。「かし」は強調の終助詞なので、「帰れかし」は「帰ってください」という強い願いの意味になります。この歌が詠まれた昭和二十四年当時、作者は結核のために長期入院を余儀なくされていました。病のために弱っている私の見舞いに来てくれた「君」が、病院から帰ってゆく姿を病室の窓から見送っているのです。君は光の中へ帰ってほしい、という思いはやはり、自分自身は病という苦の中にいる、という意識から生まれたものでしょう。病棟生活の中で詠まれた、光と影が交錯する、切ない相聞の一首です。
妻と称ぶ日などのありや顎の下を剃りくるる指に葱のにほひす

滝沢 亘(わたる)『白鳥の歌』


肉体(からだ)もて愛し得ぬことも侮辱ならむ風となる夜半に赤き本閉ず


先にあげた河野は幸いにして健康を取り戻しましたが、同じく結核患者であった滝沢亘は昭和四十一年、サナトリウムで四十歳の生を閉じました。彼は療養生活の中で詩歌総合誌「日本抒情派」を創刊するなど、短歌への情熱を燃やし続けた一人です。その歌のロマンティシズムとニヒルな感覚、苦しいストイックさは今もって読む者の心を深く打つものがあります。
一首目、同じサナトリウムで暮らす療養仲間に髭(ひげ)を剃(そ)ってもらっています。実はその相手は恋人なのでしょう。しかしその思いは「妻と称(よ)ぶ日などのありや」と思い悩んだ形で歌になっています。療養者である自分には結婚などできない、という思いがこうした苦しい胸の内を描かせるのでしょう。恋人の指からかすかに匂う葱(ねぎ)の香りに現実感があり、それがまた歌の世界を物悲しくさせます。
二首目はさらに直接的な表現に踏み込んでいます。体が健康ではないので、あなたと肉体的に結ばれることが叶(かな)わない。そのことをあなたは侮辱的に感じることもあるだろうか、というのですね。「赤き本」は作者の中の情欲――感じていても相手に注ぐことのできぬ情欲の比喩(ひゆ)として活きています。
これらの歌には、滝沢自身の療養者としての身体的な苦しみだけではなく、当時の社会が病者に対して押し付けた「療養者のあるべき姿」という抑圧から来るものも感じられます。
■『NHK短歌』2018年2月号より

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