自己分裂したままの矛盾からつくり出された文学
フランス文学者で、明治大学教授の鹿島茂(かしま・しげる)さんは、ヴィクトル・ユゴーの思考には、「光と闇」「美と醜」といった互いに相反するものの共存という様態が見られると指摘します。その理由は、彼自身の生い立ちにありそうです。
* * *
ヴィクトル・ユゴーは、1802年、共和国陸軍の大隊副官である父ジョゼフ=レオポール・ユゴーとヴァンデ地方の王党派の家系に連なる母ソフィーの間に生まれました。そんな正反対の政治思想の二人がなぜ結婚したかというと、ヴァンデの反革命軍鎮圧に派遣されたユゴー大隊副官が、そこで出会った敵方の娘ソフィーに一目惚れしてしまったからです。
しかし、この結婚には初めから無理があり、何につけても正反対の夫婦はすぐに不仲になります。夫はナポレオン軍の転戦に次ぐ転戦で自宅にはほとんど戻らず、任地で愛人を囲っていたこともあり、夫婦仲は最悪の状態となりました。妻は妻でヴィクトル・ラ・オリー大佐という愛人をつくり、身ごもった三人目の子に愛人と同じヴィクトルという名前をつけたのです。ユゴーは長い間、自分が父の子ではなくラ・オリーの子ではないかと疑っていたようです。
ちなみに、この貴族的なやさ男の愛人はのちにソフィーにけしかけられ、ナポレオンへのクー・デター計画に参加して失敗し、銃殺されることになります。
母ソフィーは激烈な性格で、子どもたち三人を王党的な思想で育てあげますが、文学的には自由な感性の持ち主だったらしく、貸本屋に子どもたちが行くと「どんな本でも読んでいい」と言って、エロティックな小説でも何でも自由に選ばせたといいます。ヴァンデ地方の王党派というのは、横並びの平等主義を嫌悪するが、基本的には各人の自由を尊重するという点でイングランド的な絶対自由主義者に近いといえます。ソフィーも王党派で自由主義という少し変わったポジションにいたようです(王党派には自由を嫌う集団主義的な党派もあり、こちらが主流派です)。
一方、父レオポールは大革命で崩壊しかかった陸軍を立て直した共和主義的将校団の一員で熱烈な平等思想を奉じていましたから、まるで水と油で二人が合うわけはないのです。
ところで、共和主義者で平等主義の父と王党派で自由主義の母という二つの傾向は、ある意味、古くからあるフランスの家族類型に根差した無意識の古層の二つのタイプでもありました。ユゴーは正反対の父と母からフランスの二つの集団的な古層を受け継ぎ、それらを自身のうちに同居させていたと言えるのです。
また困ったことに、父からは強い性欲、母からは厳格な禁欲という矛盾した資質を受け継いでいます。性的にも早熟で人一倍強い欲望の持ち主であったにもかかわらず、20歳で幼なじみのアデル・フーシェと結婚するまで、禁欲生活を貫き通したのも、こうした矛盾を昇華しようとするユゴーの意志の現れだったかもしれません。
ユゴーは、16歳頃からアデルと結婚したがっていましたが、母に厳しく反対されて悩んでいました。しかし、母はユゴーが20歳のときに突然世を去ったため、結婚は成就することになります。新婚の夜、ユゴーは抑えていた性欲を爆発させて一晩に18回も愛し合ったと後に回想しています。ただし結婚式の翌日、自分と同じくアデルに恋していた次兄ウージェーヌが、弟への嫉妬と絶望のあまり精神を病んでしまうという悲劇も起こりました。この悲劇は後に母の死とともにユゴーの無意識を縛り始めます。ユゴーは自分の激しすぎる性欲が周囲の人たちを無意識のうちになぎ倒すのではないかという恐れを抱くようになったようです。
ところで、ユゴーは先述のように自分は母の不義の子であり父の実の子ではないのではないかと疑いをもつようになっていましたが、母の死後のある日、父から「お前はリュネヴィルという任地への旅の途中、大鷲が現れたときに、山の上で懐胎されたのだ」と告げられ、一気に青空が開けたような感覚を味わいます。大鷲というのはナポレオンの象徴ですから、父と自分を貫く血がナポレオンという正統性によって保証を与えられたような気持ちになったからです。そして、父のイメージを通じてナポレオン的なものへと回帰していきます。もちろん本当のところはわかりませんが、少なくともユゴーはそう確信したようです。
このように、ユゴーという人は、正反対の両親の元で、内部に矛盾を抱えながら育った人間ですが、そのためでしょうか、思考には「光と闇」や「美と醜」といった互いに相反するものの共存という様態が見られます。古典派的な考えに照らすならその矛盾は統一され、合一なものにつくり替えられなければならないとされますが、ユゴーはむしろ、自己分裂したままの矛盾から文学をつくり出すべきだ、と考えたようです。これがロマン派の中でもユゴーをユニークな存在にしている特徴の一つです。
■『NHK100分de名著 ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ』より
* * *
ヴィクトル・ユゴーは、1802年、共和国陸軍の大隊副官である父ジョゼフ=レオポール・ユゴーとヴァンデ地方の王党派の家系に連なる母ソフィーの間に生まれました。そんな正反対の政治思想の二人がなぜ結婚したかというと、ヴァンデの反革命軍鎮圧に派遣されたユゴー大隊副官が、そこで出会った敵方の娘ソフィーに一目惚れしてしまったからです。
しかし、この結婚には初めから無理があり、何につけても正反対の夫婦はすぐに不仲になります。夫はナポレオン軍の転戦に次ぐ転戦で自宅にはほとんど戻らず、任地で愛人を囲っていたこともあり、夫婦仲は最悪の状態となりました。妻は妻でヴィクトル・ラ・オリー大佐という愛人をつくり、身ごもった三人目の子に愛人と同じヴィクトルという名前をつけたのです。ユゴーは長い間、自分が父の子ではなくラ・オリーの子ではないかと疑っていたようです。
ちなみに、この貴族的なやさ男の愛人はのちにソフィーにけしかけられ、ナポレオンへのクー・デター計画に参加して失敗し、銃殺されることになります。
母ソフィーは激烈な性格で、子どもたち三人を王党的な思想で育てあげますが、文学的には自由な感性の持ち主だったらしく、貸本屋に子どもたちが行くと「どんな本でも読んでいい」と言って、エロティックな小説でも何でも自由に選ばせたといいます。ヴァンデ地方の王党派というのは、横並びの平等主義を嫌悪するが、基本的には各人の自由を尊重するという点でイングランド的な絶対自由主義者に近いといえます。ソフィーも王党派で自由主義という少し変わったポジションにいたようです(王党派には自由を嫌う集団主義的な党派もあり、こちらが主流派です)。
一方、父レオポールは大革命で崩壊しかかった陸軍を立て直した共和主義的将校団の一員で熱烈な平等思想を奉じていましたから、まるで水と油で二人が合うわけはないのです。
ところで、共和主義者で平等主義の父と王党派で自由主義の母という二つの傾向は、ある意味、古くからあるフランスの家族類型に根差した無意識の古層の二つのタイプでもありました。ユゴーは正反対の父と母からフランスの二つの集団的な古層を受け継ぎ、それらを自身のうちに同居させていたと言えるのです。
また困ったことに、父からは強い性欲、母からは厳格な禁欲という矛盾した資質を受け継いでいます。性的にも早熟で人一倍強い欲望の持ち主であったにもかかわらず、20歳で幼なじみのアデル・フーシェと結婚するまで、禁欲生活を貫き通したのも、こうした矛盾を昇華しようとするユゴーの意志の現れだったかもしれません。
ユゴーは、16歳頃からアデルと結婚したがっていましたが、母に厳しく反対されて悩んでいました。しかし、母はユゴーが20歳のときに突然世を去ったため、結婚は成就することになります。新婚の夜、ユゴーは抑えていた性欲を爆発させて一晩に18回も愛し合ったと後に回想しています。ただし結婚式の翌日、自分と同じくアデルに恋していた次兄ウージェーヌが、弟への嫉妬と絶望のあまり精神を病んでしまうという悲劇も起こりました。この悲劇は後に母の死とともにユゴーの無意識を縛り始めます。ユゴーは自分の激しすぎる性欲が周囲の人たちを無意識のうちになぎ倒すのではないかという恐れを抱くようになったようです。
ところで、ユゴーは先述のように自分は母の不義の子であり父の実の子ではないのではないかと疑いをもつようになっていましたが、母の死後のある日、父から「お前はリュネヴィルという任地への旅の途中、大鷲が現れたときに、山の上で懐胎されたのだ」と告げられ、一気に青空が開けたような感覚を味わいます。大鷲というのはナポレオンの象徴ですから、父と自分を貫く血がナポレオンという正統性によって保証を与えられたような気持ちになったからです。そして、父のイメージを通じてナポレオン的なものへと回帰していきます。もちろん本当のところはわかりませんが、少なくともユゴーはそう確信したようです。
このように、ユゴーという人は、正反対の両親の元で、内部に矛盾を抱えながら育った人間ですが、そのためでしょうか、思考には「光と闇」や「美と醜」といった互いに相反するものの共存という様態が見られます。古典派的な考えに照らすならその矛盾は統一され、合一なものにつくり替えられなければならないとされますが、ユゴーはむしろ、自己分裂したままの矛盾から文学をつくり出すべきだ、と考えたようです。これがロマン派の中でもユゴーをユニークな存在にしている特徴の一つです。
■『NHK100分de名著 ユゴー ノートル=ダム・ド・パリ』より
- 『ユゴー『ノートル゠ダム・ド・パリ』 2018年2月 (100分 de 名著)』
- NHK出版
- 566円(税込)
- >> Amazon.co.jp
- >> HonyaClub.com
- >> HMV&BOOKS