道元が到達した豁然大悟

「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」を意味する「身心脱落(しんじんだつらく)」という言葉があります。宗の天童山景徳寺(てんどうざんけいとくじ)で修行していた道元は、この言葉で悟りを開いたといいます。道元がどのように悟りに達したのか、仏教思想家のひろさちやさんに伺いました。

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■道元の悟り

長年の疑問への答えを急ぐ前に、彼の伝記である『三祖行業記(ぎょうごうき)』や『建撕記(けんぜいき)』に記された大悟(たいご)の場面を紹介したいと思います。ここに、道元思想のキイ・ワードが登場します。
天童山にいた道元は、ある朝、大勢の僧とともに坐禅をしていました。そのとき、一人の雲水(うんすい)が居眠りをしてしまいます。如浄禅師は彼を叱ってこう言いました。
「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管(しかん)に打睡(だすい)して恁麼(いんも)を為(な)すに堪えんや」
参禅することは「身心脱落」のためである。それなのに、おまえはひたすら居眠りばかりしておる。そんなことで参禅の目的が果たせるというのか。そんな意味の叱声(しっせい)です。そして如浄は彼に警策(けいさく)を与えました。
そのとき、道元はパッとひらめきます。自分に向かって言われたのではない言葉、他の雲水を叱るために如浄禅師が発した言葉が触媒になり、豁然(かつぜん)大悟したのです。
それは、“身心脱落”という言葉でした。道元はただちに如浄のもとに行き、「身心脱落しました」と報告しました。如浄は弟子の道元の悟りを認めました。しかし、道元はいささか不安だったのでしょう。「これは暫時(ざんじ)の技倆(ぎりょう/ちょっとしたテクニック)です。和尚よ、みだりにわたしを印可(いんか/肯定)しないでください」と言います。
「わしは、みだりにおまえを印可したりはせんよ」
「では、そのみだりに印可しないところは、何なのですか」
「脱落、脱落」
如浄はそのように「脱落」という言葉を繰り返しました。それによって道元の大悟を肯定したのです。
じつはわたしは、このとき道元は、如浄が発した“身心脱落”という言葉を、師の意図とは違う意味で受け取った可能性が大きいと見ています。如浄は、身心脱落を「邪念をなくすこと」の意味で用いていました。如浄は居眠りする雲水を、「坐禅とは邪念をなくすことなのに、おまえは坐禅しながら五つの煩悩(五蓋〈ごがい〉)の一つである睡眠蓋にとらわれている。ナンタルコトゾ!」と叱ったわけです。
ところが道元は、その言葉を聞いた瞬間、文字どおりに身心脱落してしまった。ちっぽけな自我(エゴ)に対する執着がなくなり、一種の「没我」あるいは「無我」の境地に到達したのです。
聞き間違いで悟りに達するなんて、と思うかもしれませんが、世の中とは案外そういうものではないでしょうか。わたしの場合、教え子が、「先生のあのときの言葉が役に立ちました」などと言ってくれることがあります。でもたいてい、それは話の本筋ではないのです。わたしの脱線話から自分なりに意味をふくらませて受け取っている。ですから、道元が聞き間違いで悟りに達したと言ってもちっとも不思議ではありません。その証拠に、如浄は弟子が悟りに至ったことをはっきりと見分け、お墨付きを与えています。

■仏だからこそ修行ができる

ともかく道元は、「身心脱落」という言葉によって悟りの境地に達しました。したがって、道元禅の本質は、この「身心脱落」にあります。これさえ理解できれば、道元の思想が理解できるといっても過言ではないでしょう。
では、「身心脱落」とは、どういうことでしょうか。
これは、文字どおりの意味でいえば、身も心もすべて脱落させるということ。その意味するところは、「あらゆる自我意識を捨ててしまうこと」だと考えればよいでしょう。
わたしたちはみな、自我を持って生活しています。そして、その自我のぶつかり合いでお互いを傷つけ合っているのです。「あなたにあんなことを言われてわたしはつらかった」と自我が傷ついたことに落胆したり、「いや、自分は悪くない、あいつが悪いのだ」と開き直って自我を修復したりする。自我のあること自体はよくも悪くもないのですが、問題はそれが他人との対抗意識や競争意識につながることです。
それならば、そんな自我は全部捨ててしまえ! というのが「身心脱落」です。わたしは、自我というものを角砂糖に譬(たと)えます。わたしと他人の接触は、角砂糖どうしのぶつかり合いです。それで角砂糖が傷つき、ボロボロに崩れます。それでも修復をはかり、自我を保っています。
道元の身心脱落は、そんな修復なんかせず、角砂糖を湯の中に放り込めばいいじゃないか、というアドヴァイスです。わたしたちは、いつも角ばった砂糖の状態を保とうとしている。でも、それを湯の中に入れてごらん、というわけです。湯の中というのは、悟りの世界です。真理の世界、宇宙そのもの、と言ってもよいでしょう。わたしという全存在を、悟りの世界に投げ込んでしまう。それが「身心脱落」です。
でも、身心脱落は自己の消滅ではありません。角砂糖が湯の中に溶け込んだとき、角砂糖は消滅したわけではないのです。ただ角砂糖という状態でなくなっただけで、全量は変わっていません。角砂糖は少しもなくなってはいない。そこに溶けているのです。
それと同じように、自分を悟りの世界に放り込み、そこに溶け込めばよい。そうすれば自我というものが脱落した状態になる。道元はそんなふうに気がついたのだと思います。
とすると、一般に言われる“悟りに達した”“悟りを得た”といった表現はちょっと違うかもしれませんね。人は、普通、「悟り」というものがあって、禅はその悟りを捉えるものだと思っていますが、それは違います。道元は身心脱落して、「悟りの状態・境地」「悟りの世界」に溶け込んだのです。
そしてここに、若き日に道元が抱いた疑問に対する解答があります。わたしたちは、仏教の修行者は悟りを求めて修行をすると思っています。若き日の道元もそう考え、わたしたちには仏性があるのに、なぜ悟りを求めてわざわざ修行しないといけないのか、と疑問に思ったのです。
ですが、道元が達した結論から言えば、それは逆なのです。「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅させるのです。身心脱落させるのです。そして、悟りの世界に溶け込む。それがほかならぬ「悟り」です。道元は、如浄の下でその境地に達したのです。
「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だからこそ修行できる。それが道元の結論です。
■『NHK100分de名著 道元 正法眼蔵』より

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