【「本屋大賞2025」候補作紹介】『生殖記』――語り手はオスの「○○」! いまだかつてない視点が提示する新たな時代の価値観とは?

生殖記
『生殖記』
朝井 リョウ
小学館
1,870円(税込)
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 BOOKSTANDがお届けする「本屋大賞2025」ノミネート全10作の紹介。今回取り上げるのは、朝井リョウ(あさい・りょう)著『生殖記』です。

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 小説というのは「語り手が誰か」というのも重要なポイント。たとえば主人公が語り手となる一人称視点であれば、読者はその感情や内面により深く迫ることができますし、登場人物の動きを外から捉えるような三人称視点であれば、読者は客観的な立場で物語を読み進めることになります。

 今回紹介する『生殖記』はどうかというと、おそらくこれまでに皆さんが出会ったことがない語り手になることでしょう。なんせこの物語の視点は、人間のオスに宿る「○○」なのですから......! 冒頭から「個体」「成体」「ヒト」といった単語が出てきて、読者はしばらく頭に「?」が浮かぶかもしれませんが、これも語り手が前代未聞の「○○」であるため。そうした意味では、同書は皆さんにとって新感覚の読書体験となるでしょう。

 同書は「○○」から見た「達家尚成」という人物を描いた作品になっています。尚成はある家電メーカーの総務部に勤務する三十三歳。休日には同僚と都心に買い物に出かけたり、社内のプロジェクトに任命されて憂鬱になったり、仕事の後の食事の場で仕事や恋愛の悩みを相談されたり......。一見、日本の共同体にうまく溶け込んでいるように見える尚成ですが、実はこれは擬態しているだけ。同性愛者であることを隠しながら生きている彼は、異性愛者を前提とした生産性を求める日本社会に虚しさと絶望を感じており、判断、決断、選択、先導といった共同体の拡大、発展、成長に直結する概念にはできるだけ関わらないようにしているのが実情です。

 「○○」から見れば、そんな尚成は不思議に感じるところも多い様子。というか、「○○」がヒトを担当するのは、パキスタンのMaryamというメス個体に続き2回目とのこと。だからこそ「同じ種でも生息地や色んな条件によってこうも個体差が出るのかと、そこにも驚く日々」(同書より)だといいます。同性愛だけでなく、コロナやSDGs、少子化問題についても然りで、人間の考えること・やることは「○○」にとってはツッコミどころ満載。私たちが当たり前に受け入れている既成概念にいとも簡単に矛盾を突きつけられるのは、やはり「○○が人間ではないから」が大きいかと思います。

 さて、そんなマイノリティにとって超絶生きづらい社会における"幸せの見つけ方"も同書のテーマだと言えるでしょう。私たち"ヒト"が他の動物と圧倒的に違うのは、ただ発生して消滅するだけではなく、生きる意味や価値を求められ、常にその圧力を感じなくてはいけない点。今の時代、尚成だけでなく、きっと多くの人が「いつ何時でも、共同体にとって有用な個体でいなければならない感」(同書より)に苦しめられているはず。この生産性最優先の社会の行きつくところは一体どこなのでしょうか。

 尚成が最後にたどり着いた彼なりの結論には、希望を見出せる人もいれば共感できない人もいるかもしれません。いずれにせよ、同書はこれまでにない語り手の視点を用いることで、既存の価値観に疑問を投げかけるとともに、新たな未来の姿を示した一冊になっています。

[文・鷺ノ宮やよい]

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