もう一つの沖縄戦 "戦争マラリア" を知っていますか?

少年長編叙事詩 ハテルマシキナ―よみがえりの島・波照間
『少年長編叙事詩 ハテルマシキナ―よみがえりの島・波照間』
桜井 信夫,津田 櫓冬
かど創房
1,944円(税込)
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 沖縄本島の南500キロ。エメラルドグリーンに輝く透き通った海と白い珊瑚礁のビーチを求めて、夏休みともなれば多くの観光客が訪れる八重山諸島ですが、かつてこの一帯で「戦争マラリア」という悲劇が起きたことをご存知でしょうか?

「戦争マラリア」は「八重山戦争マラリア」とも呼ばれ、終戦間近の1945年、マラリア発生地域への強制疎開により、多くの人が犠牲になった事件です。八重山諸島のなかでも、犠牲者が突出していたのが、波照間島でした。今回は、『ハテルマ シキナ 少年長編叙事詩 よみがえりの島・波照間』(桜井信夫著)、『日本軍と戦争マラリア』(宮良作著)、『日本列島を往く(1) 国境の島々』(鎌田慧著)、『証言で学ぶ「沖縄問題」-観光しか知らない学生のために-』(松野良一著)の4冊の本をもとに、波照間島で起きた「戦争マラリア」の経緯を辿りたいと思います。

 当時、マラリアに罹患したのは、波照間島の人口1590人のうち、1587人。実に99.8%もの住民がマラリアに罹り、30%におよぶ477人もの人が亡くなっています。(『証言で学ぶ「沖縄問題」-観光しか知らない学生のために-』より)

 1995年の竹富町による再調査では、波照間島の犠牲者は552人に修正され、八重山諸島全体では実に3825人もの人々が、敵軍からの直接攻撃ではなく、「戦争マラリア」で亡くなりました。

 一体なぜ、これほど多くの人が、「戦争マラリア」で尊い命を落としたのでしょうか。

 事の発端は1945年2月、山下虎雄という青年が本土から来島したことから始まります。教員という触れ込みでやってきた山下は、温和な好青年で、子ども達からも「山下先生」と呼ばれて慕われていました。しかし、1945年3月末、"米軍上陸に備え、西表島へ疎開せよ"という軍命令が伝わった日を境に変貌。軍刀を手に"旅団長の命令は天皇陛下の命令と同じだ。命令に背く者は叩き斬る!"と威圧したのです。

 しかし当時の西表島はマラリアの発生地域としてよく知られていました。当然、住民の中にも"米軍はもう慶良間諸島に上陸し、今は沖縄本島に向かって北上していると聞く。今さら南下して波照間島に逆戻りするはずがない"と反対する人も何人かいましたが、体力のある男性は召集され、島内には女子供と年寄しかおらず、"軍命に背く奴は非国民だ"という山下の言葉の前には、抗うすべを持ちませんでした。

 そのほかにも、空襲があった場合に、小さな波照間島ではひとたまりもありませんが、原生林が広がる西表島なら逃げ込めることなども理由に、住民は疎開を承諾したと言います。もちろん、マラリアの危険性も知られていましたが、20年前に移住者が全滅した事件は、住民の間で風化しつつありました。このとき、ほとんどの住民が、マラリアの本当の恐ろしさを認識していなかったのです。(『証言で学ぶ「沖縄問題」-観光しか知らない学生のために-』より)

 移住後まもなく、島内ではマラリア罹患者が続出し、死亡者は日増しに増える一方。このままでは住民が全滅してしまう......危機感を感じた波照間国民学校の識名信升(しきな・しんしょう)校長は、7月末に小舟で西表島を脱出して、石垣島の第45旅団長に惨状を"直訴"し、帰島の許可を得ます。山下は軍刀を振りかざし、帰島に反対しますが、このときには住民も"どうせ死ぬなら、波照間島へ帰って死んだ方がいい、斬るなら斬れ!"と、識名校長を中心に全員で必死に抵抗し、波照間島に帰ります。(『ハテルマ シキナ 少年長編叙事詩 よみがえりの島・波照間』より)

 しかし壮絶なマラリア地獄はここからが本番でした。多くの住民がマラリアに罹患したまま帰島したので、波照間島もマラリア有菌地と化してしまったのです。食料も尽き、島内に自生する「ソテツ」の幹を食べ尽くしてしまうほど、飢餓は悲惨なものだったと言います。(『証言で学ぶ「沖縄問題」-観光しか知らない学生のために-』より)

 強制疎開前の波照間島には、住民が飼育する牛・豚・山羊など多くの家畜がいましたが、山下は"敵の食料にならないように、疎開前にすべて処分しろ"と命じ、住民に屠殺させています。それらの肉は島の鰹節工場で燻製にされた後、石垣島の旅団に運ばれたといいます。ほぼ同時期に、黒島や与那国島など周辺の島にも、離島残置諜者が来島し、家畜の徴収や強制疎開が実行され、同様のマラリア悲劇が起こっています。

 後に山下は、日本陸軍の諜報員養成機関「陸軍中野学校」出身の軍人で、なんらかの極秘任務を帯びた離島残置諜者だったことが明らかになります。戦後の調査でも、この強制疎開について公的な文書は見つかっておらず、疎開理由には疑問が残っています。

 ルポライターの鎌田慧さんは、生き残った住民に聞き取りをした上で、著書『日本列島を往く(1) 国境の島々』の中で、「住民を強制移住(強制疎開)させようとする軍部の方針は、住民に対する不信感によっている。米軍が占領したあと、住民が敵に寝返りを打つかもしれない、との恐怖心の表れでもある。住民を丸ごと追い払い、牛を殺して食糧とする、それが山下に与えられた任務だった」と、日本軍の食料調達という目的のほかに、捕虜になった住民がスパイとして敵軍に利用され、自軍が不利になることを恐れたのだろうと述べ、「日本軍が島ぐるみ強制退去させたのは、住民の庇護というよりは、あくまでも大本営の戦術のためである。それもひとりの二〇代はじめの若い残置諜者の命令だけで、島のひとたちがマラリア地獄のなかに叩きこまれた」(同書より)と結論付けています。

 多くの尊い命を奪った戦争マラリアの悲劇。前出『証言で学ぶ「沖縄問題」』で著者の松野良一さんは、「もしも、山下が戦争に特化した教育を受けていなかったら、多くの人を傷つけることもなかった。山下もまた、戦争下の被害者なのではないか」と問いかけます。当時の日本を支配していた軍国主義が、「戦争マラリア」の背景にあったことは、決して忘れてはならない事実だと言えるでしょう。

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