最新作にもやもやするなら50周年『ゴジラ対メガロ』
- 『ゴジラ対メガロ』
- 佐々木 勝彦,川瀬 裕之,林 ゆたか,富田 浩太郎,福田 純,福田 純
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『ゴジラ-1.0』が公開中だ。封切りから三日間の興行収入は、空前の大ヒットといって良いだろう前作『シン・ゴジラ』を上回ったという。内容についても、筆者の観測範囲では好評が不評を大幅に上回っている。好評の理由としては、やはりVFXに長けた山崎貴監督自身が手がける、ゴジラが暴れ回る見せ場の数々のド迫力ぶりであろう。それに加えて従来のゴジラファンの多くに好評なのが、かつての作品群であれば特撮パートから乖離していた人間ドラマパートがきちんと融合している、というようなあたりで、実際に筆者も従来の「ゴジラ映画」「特撮映画」「怪獣映画」というジャンルと比べれば、『ゴジラ-1.0』は遥かにきちんと一般的な「映画」としての見栄えを持った作品ではあるな、と感じた。
とはいえ、あくまでも「比べれば」ということであって、実際に一般的な「映画」と並べて本当に遜色なく、「ゴジラ映画」「特撮映画」「怪獣映画」といったジャンルにとらわれない「映画」に見えるものなのかどうか、筆者は従来のゴジラファンのため、冷静に判断することは難しい。こうしたもやもやを解消するためにできることといえばきちんと分析することなのだろうが、めんどくさいので従来のシリーズを見ることでもやもやを払拭してしまうことにしたい。
ということで、数ある従来のゴジラシリーズの中から第13作『ゴジラ対メガロ』を、いったいいつぶりだかわからないぐらい久しぶりに鑑賞してみた。
本作は1973年に公開された、今年で50周年となる作品だ。ゴジラシリーズはこの後、翌74年の『ゴジラ対メカゴジラ』と、75年の『メカゴジラの逆襲』をもって一旦休眠状態へ入る。つまり『ゴジラ対メガロ』はいわゆる昭和ゴジラシリーズ末期の一作なのだが、シリーズラストへ向けての華々しい花道などとはとてもいえない、ジリ貧状態で踏ん張っている痛々しい泥舟とでもいうような作品である。『ゴジラ-1.0』に対してのもやもやを払拭するために見る「従来のシリーズ」としては極端過ぎるというか、荒療治が過ぎる一本だ。
だが、今回再鑑賞しながら感じたのは、自分が子どもの頃に見て楽しんでいたゴジラ映画ってこういうもんだったよな、というものだった。特撮の完成度の高さ、人間ドラマの充実、そういったものを求めていたのではなかったのだ。見たかったのはゴジラや怪獣の登場シーンであり、ポスターなどで登場が予告されていないアンギラスとラドンが出てくるのも嬉しく、低予算の苦肉の策として過去の作品からフィルムが流用されているのもより多くの特撮映画にも触れられたようでお得に感じる。
あからさまにゴジラの擬人化が進んでいるし、どこから費用が出ているのか皆目わからない民間人が開発したロボット・ジェットジャガーが突然自我を獲得して自分の意思だけで巨大化するし、新怪獣メガロを操る海底王国が遠い宇宙に連絡して前作の悪役怪獣ガイガンに助っ人を頼むし、徹頭徹尾出鱈目御都合主義満載なのだが、そのわかりやすさというかいい加減さは、幼い頃にテレビで初めて本作を見たときの印象そのままで、これはこれでいいんだ、むしろ俺はこういうゴジラ映画を見たかったんだ思い出し、もやもやの払拭は見事に成功した。
おそらく『ゴジラ-1.0』は『シン・ゴジラ』レベルのリピーターを生んでロングランとなるのだろうが、『ゴジラ対メガロ』だってゴジラ映画なんだから、たまにはこっちも見てみなよ、ゴジラ映画と呼ばれる作品群の幅の広さにびっくりするから、なんてことも、新作を絶賛する方々にあえて言いたくなるのであった。ついでに1970年公開の第10作『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』も、ヴァーチャルリアリティを先取りした異色作としておすすめしたいが、これはまた別の機会に。
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文/田中元(たなか・げん)
ライター、脚本家、古本屋(一部予定)。
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