敗戦後の大衆がすがった「ナチズム」の世界観

第一次世界大戦後、ドイツは敗戦国として四面楚歌の状態に置かれました。金沢大学法学類教授の仲正昌樹(なかまさ・まさき)さんは、「ドイツ人には、戦勝国である資本主義の国々が自分たちを圧迫しているという感覚があったと思います。その資本を思いのままに動かしているのがユダヤ人だという発想の短絡があっても不思議ではありません」と指摘します。こうした大衆の思潮が、全体主義へと発展しやすい民族的ナショナリズムの下地となっていたのです。

* * *

第一次世界大戦で敗戦したドイツは、領土を削られ、賠償金問題で経済も逼迫(ひっぱく)。さらに1929年に始まる世界恐慌によって多くの有力企業が倒産し、街には失業者があふれていました。
この先、自分はどうなるのか。経済が破綻したこの国は、どうなってしまうのか──。不安と極度の緊張に晒(さら)された大衆が求めたのは、厳しい現実を忘れさせ、安心してすがることのできる「世界観」。それを与えてくれたのがナチズムであり、ソ連ではボルシェヴィズムでした。
人間は、次第にアナーキーになっていく状況の中で、為す術もなく偶然に身を委ねたまま没落するか、あるいは一つのイデオロギーの硬直した、狂気を帯びた一貫性に己を捧げるかという前代未聞の二者択一の前に立たされたときには、常に論理的一貫性の死を選び、そのために肉体の死をすら甘受するだろう──だがそれは人間が愚かだからとか邪悪だからということではなく、全般的崩壊のカオスの状態にあっては、こうした虚構の世界への逃避こそが、とにかく最低限の自尊と人間としての尊厳を保証してくれるように思えるからなのである。

(『全体主義の起原』第三巻、以下引用部はすべて同様)



ともかく救われたいともがく大衆に対して全体主義的な政党が提示したのは、現実的な利益ではなく、そもそも我々の民族は世界を支配すべき選民であるとか、それを他民族が妨げているといった架空の物語でした。
全体主義運動は自らの教義というプロクルステスのベッド(※)に世界を縛りつける権力を握る以前から、一貫性を具えた嘘の世界をつくり出す。この嘘の世界は現実そのものよりも、人間的心情の要求にはるかに適っている。ここにおいて初めて根無し草の大衆は人間的想像力の助けで自己を確立する。そして、現実の生活が人間とその期待にもたらす、あの絶え間ない動揺を免れるようになる。
「現実世界」の不安や緊張感に耐えられなくなった大衆は、全体主義が構築した、文字通りトータル(全体的)な「空想世界」に逃げ込みました。それは、自分たちが見たいように現実を見させてくれる、ある種のユートピアでした。
空想世界といっても、現実世界から完全に切り離されたものではなく、現実を(かなり歪曲した形で)加工したものが基盤となっています。大衆が想像力を働かせやすいエピソードをちりばめながら、分かりやすく、全体として破綻のない物語を構築するためにナチスが利用したのは「反ユダヤ主義」と、ユダヤ人による「世界征服陰謀説」でした。
周知のようにユダヤ人の世界的陰謀の作り話は、権力掌握前のナチスのプロパガンダのうち最大の効果を発揮するフィクションとなった。反ユダヤ主義は19世紀の最後の三分の一以来、デマゴギー的プロパガンダの最も効果的な武器となっており、ナチスが影響を与えるようになる前、すでに1920年代のドイツとオーストリアで世論の最も強力な要素の一つになっていた。

荒唐無稽な「作り話」であっても、ユダヤ系資本が力を持っていた英米仏から政治的、経済的に締め付けられ、厳しい暮らしを強いられていたドイツの大衆にとっては説得力のあるシナリオになり得ました。ユダヤ人は恰好のターゲットだったのです。
ヒトラーは政権獲得後も、自らを支持した大衆の反ユダヤ的な想像力を利用し、「ユダヤ人を排してドイツ民族の血を浄化する」という人種差別的なイデオロギーで大衆を率いていきました。大衆を動員するために利用した物語的世界観を、そのまま国家の指導原理に応用し、特殊な世界観で統一された全体主義的な国家を作り上げていったわけです。
※プロクルステスのベッド
ギリシア神話に出てくるアッティカの追い剝ぎプロクルステスが、通行人を捕らえてベッドに無理やり寝かせ、身長がベッドより長ければその長さだけ足を切り落とし、短ければ槌で打ち伸ばしたというエピソードから、容赦ない強制や杓子定規の意味で使われる。
■『NHK100分de名著 ハンナ・アーレント 全体主義の起原』より

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