古くは縄文時代から——月見文化の始まり

月を見るという風習は縄文時代からあったといわれ、和歌のテーマとしても長く愛されてきました。湯武者小路千家家元教授の木津宗詮(きづ・そうせん)さんが、月見文化の起源について紐解きます。

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なにごとも変はりのみゆく世の中におなじかげにてすめる月かな
保元(ほうげん)の乱から源平合戦へと兵乱の打ちつづく激動の時代は、まさに無常の世でありました。この和歌には、そうした世の中でも月は古(いにしえ)となにひとつ変わらぬ光を放ち澄み輝いているのだという西行(さいぎょう)の思いが込められています。月の光は、今も昔も不変のものなのです。

■中秋の名月

和歌の世界では「澄む月」といえば秋の月のこととされています。旧暦八月十五日の月は「中秋の名月」や「十五夜」と呼ばれ、一年でもっとも美しい光を放ちます。この夜には、秋の夕べにひときわ大きく昇る満月を愛でる月見が行われます。あいにく雲に隠れて月が見えないことを「無月(むげつ)」、中秋の夜に雨が降ることは「雨月(うげつ)」といい、中秋の夜にたとえ月が隠れていても、ほの明るい風情も愛でていたのです。一方で、満つる直前の不完全な九月十三日の月も「十三夜」として愛でられています。
秋は空気が澄み、一年でもっとも月がきれいに見える季節です。秋の月の高さ(高度)は夏と冬のちょうど中間に位置し、満月が四季の中でもっとも見やすくなります。夏は月の位置が低く、冬は高すぎるため、春と秋がちょうどいいのです。ただし、秋に比べ春は湿度が高く月が霞んでぼんやりと見え、秋ははっきりと輝いて見えます。つまり春よりも秋のほうが月見に適しているのです。同様に、冬の月は寒々とした空に冴(さ)え、美しく輝いていますが、残念ながら寒くて長時間の月見には不向きです。夏も暑すぎて月見には不向きです。
また、月見の行われる秋は、農作業が一段落し、収穫の時期でもあります。中秋の名月のころは里芋の収穫時期にあたり、それを月に供えることから中秋の名月のことを特に「芋名月」と呼びます。また九月十三日の十三夜は「後(のち)の月」や「栗名月」、「豆名月」とも呼ばれています。十五夜にも十三夜にも芒と月見団子、十三夜はほかに栗や枝豆を供えます。いずれも無事に収穫を迎えた喜びと感謝を込めて、また農作物が豊作になることを願い、月を愛でていたのでしょう。

■観月のはじまり

月を見るという風習は日本では縄文時代からあったといわれます。『古事記』、『日本書紀』に書かれた日本神話の中に伊弉諾命(いざなぎのみこと)の息子で天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟、素盞嗚尊(すさのおのみこと)の兄にあたる月読命(つきよみのみこと)は、月を神格化した神であり夜を治める神として信仰されてきました。一方で、『竹取物語』にはかぐや姫が月を眺めるのを嫗(おうな)が咎(とが)める場面があり、月を見ることをタブーとする習慣もあったといわれています。これは月を神として崇(あが)め、神を直接見ることを憚(はばか)ってのことではないかと思われます。
名月を観賞する風習は平安初期に中国唐から伝わったとされています。江戸後期の屋代弘賢(やしろ・ひろかた)が日本の故事の起源や沿革についての考証を分類編集した『古今要覧稿』によれば、十五夜の月を観賞したことがはじめて現れるのは、平安前期の貴族で詩人であった島田忠臣(ただおみ)が、斉衡(さいこう)三年(八五六)や貞観(じょうがん)元年(八五九)に奉った家集だといわれています。また宮中での観月は延喜(えんぎ)九年(九〇九)に醍醐(だいご)天皇が催したのが最初であるとあります。宇多(うだ)天皇が亭子院(ていじいん)で催した観月の宴で詩歌を詠むことが盛んになり、和歌は紀貫之(きのつらゆき)や大河内躬恒(おおしこうちのみつね)、素性(そせい)法師がそのはじめであると記されています。
■『NHK趣味どきっ! 茶の湯 武者小路千家 残暑から初秋を楽しむ茶会』より

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