なぜ「雨ニモマケズ」は国民的な文学となったのか

教職を辞した宮沢賢治は大正十五年、農村における芸術の実践という理想を掲げ、死去した妹トシが療養した実家の別荘を改装してひとり暮らしを開始。畑を耕したり、近くの村へ農業指導や肥料相談に出かけたりする日々をスタートさせます。そして八月には、羅須地人協会を立ち上げます。ときには彼を慕ってやってくる者たちと音楽の練習をしたり、レコードコンサートを開いたり、近所の子どもたちを集めて自分の童話や外国の童話を語り聞かせたりと、芸術教育の実践も試みていました。また賢治が講師となり、トルストイやゲーテの芸術の定義や、農民芸術、農民詩について語りあうなど、大学のゼミナールのようなことも行っていたようです。しかし、彼の思いは一部を除いて理解されることはありませんでした。日本大学芸術学部教授の山下聖美(やました・きよみ)さんは、賢治が理想と現実の狭間で自分の生き方を模索し続けた末に書いたのが「雨ニモマケズ」であったと考察します。

* * *

賢治は理想に邁進(まいしん)したいと思い、その思いのもとで行動をしつつも、現実という壁に突き当たっていつも苦しんでいました。狭い世間で、名家の当主として世間体を重んじる父。さらに賢治は、幼い頃から母に「人のために生きるのス」と言われて育ったといいますが、この言葉も賢治にとっては呪縛となったでしょう。なぜなら、母が言う「人」とは、現実に生きている世間の人たちのことだからです。賢治は「疑獄元兇(げんきょう)」」という短篇梗概(こうがい)に、「生きた世間といふものは、たゞもう濁った大きな川だ」という言葉も残しています。心象スケッチという、言ってみれば浮世離れした理想の世界をもっていたからこそ、世間という「自分が生きていかなければいけない世界」というものも実は非常に意識していた。それが宮沢賢治という人だったのだと思います。
そんな賢治が、世間で生きていくにはどのようにしなければならないかを書いたのが、「雨ニモマケズ」だと私は考えています。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
(中略)
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
「マケズ」ということが重要です。勝つのではなく、負けない。世の中では「勝ち組」「負け組」などと言われたりしますが、賢治はこのように区分しません。負けない者こそが一番強いのです。また、世間はとても嫉妬(しっと)深いところでもあります。勝ってしまえば、足をひっぱられ、引きずりおろされます。出る杭(くい)は打たれるのです。ですから、とりあえず負けないことが重要になります。また、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ」というのは、個をあまり出さないということにつながります。個を出して何かを主張しすぎたりすると、世間からは叩かれる。ですから、自分の意見は勘定に入れず、常に人の顔色をうかがい、世間の目を気にして、生きていくことが必要になるのです。
そして最後、「サウイフモノニ ワタシハナリタイ」と記します。私はそういうものだ、ではなく、そうなりたい、という願いの中に、逆に現実にはそうなれない賢治自身の切ない思いが感じられます。
賢治の死後に発見された「雨ニモマケズ」は、戦争に向かう時局と相まって、さまざまな機会においてスローガンのように使われるようになりました。日本人の美徳を表す代表的なテキストのように読めるため、ちょうどよかったのでしょう。「一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ」というところが、戦後すぐの時代、中学校の国語教科書に掲載されるにあたり、玄米四合は食料が不足していた当時の実感とかけはなれているとして、三合に変えられたという逸話もあります。発表する意図のなかった「雨ニモマケズ」がここまで国民のあいだに広がったことは、心象スケッチこそが自分の芸術だと考えていた賢治の立場からすると不思議なことであったと言えるかもしれません。
一方で、見方を変えると、宮沢賢治のテキストそのものが不思議であるとも言えます。戦時中のスローガンなどに利用したつもりでいて、実はテキストの生命力に我々の方が利用されていたのではないでしょうか。戦中に大政翼賛会が発行する雑誌にまで掲載された「雨ニモマケズ」は、戦前・戦中の価値観が否定された戦後にも教科書に載って生き続けたのです。戦争には勝てませんでしたが、「マケズ」というところがまた日本人の心理にフィットし、戦後の人々の心の支えになっていたのかもしれません。「雨ニモマケズ」は、テキスト自身が時を超え、時代を貪欲(どんよく)に食って生き残ってきたとも言えるのです。
■『NHK100分de名著 宮沢賢治スペシャル』より

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