趙治勲名誉名人が作家・江崎誠致先生に窮地を救ってもらったお話

イラスト・石井里果
『NHK 囲碁講座』の連載『趙治勲名誉名人のちょっといい碁の話』。11月号では従軍経験に基づく小説『ルソンの谷間』などで知られる作家、江崎誠致(えさき・まさのり)さんとの交流を綴ります。

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江崎誠致さんをご存じですか。『ルソンの谷間』で直木賞を受賞された、日本を代表する作家の一人です。囲碁ファンには本因坊戦の観戦記を執筆されていたと言ったほうが通りはいいかな。今回は作家と棋士の面白い関係をお話しします。
江崎先生はぼくより30以上年上でした。一般社会なら、あまり知り合うこともない年齢差です。縁を結び付けてくれたのはやっぱり囲碁。著書には囲碁にまつわるものも多く、呉清源先生や坂田栄男先生に関するものもあります。棋力は相当なもので、文壇本因坊戦、文壇名人戦では毎回のように活躍されていたとか。1991年には囲碁の普及発展に寄与したとして、日本棋院から大倉喜七郎賞を贈られています。
江崎先生は戦争経験者です。「敵と戦うのはどうってことなかった。でも、上官に殴られるのがとても嫌だった」とよくおっしゃっていました。戦地で突撃の号令に少しでもためらうと、後ろから上官にどやされる。そういうのが耐えられなかったと。もうずいぶん前の話なので、ぼくの受け取り方にはもしかしたら先生の意に沿わないものがあるかもしれませんが。とにかく江崎先生のことを思い出すと、まずこのフレーズが頭の中に浮かんできます。
先生はとにかくカッコツケマンでした。無口で、宵越しのゼニは持たないような、生粋の江戸っ子といったイメージです。
坂田先生とは大の仲良しでしたが、あるときケンカしたみたいで、腹立ちまぎれにぼくに興味を持ったみたいです。対局にもついてくるようになったなあ(笑)。
ぼくがまだ二十歳前のころです。もう時効とみて告白しますが、仲間の棋士と碁界関係者7、8人で飲みに出かけました。繰り出したのは新宿。とっても安いところでとっても安い酒を飲んでいました。ただ、いくら安くてもお酒は怖いものです。7、8人全員の気を大きくしてしまった。そして、ついに誰かが叫びました。「俺たちは銀座で飲まなくちゃいけないだろう!」
なぜ銀座か。なぜ飲まないといけないのか。今でも謎です。しかしこのときのぼくたちはもう止まらない。「そうだ! そうだ!」の大合唱です。
銀座でまさにどんちゃん騒ぎ。2時間くらい居たでしょうか。そろそろ帰ろうかという流れになったとき、誰も財布を出しません。瞬間、みんなの顔が引きつりました。支払いに堪えうるお金を誰も持っていないことに気付いたからです。いや、誰も払う気がなかったと言ったほうが正しいでしょう。
そのとき、江崎先生を思い出しました。これが妙手。電話して窮状を告げると、すぐに来てくれました。何も言わずに全額を現金で払い、「メシでも食いにいくか」と。ぼくたち全員にごちそうまでしてくれたのです。
実は、本題はここからです。この美談はその後、一度たりとも話題に上りませんでした。このときの7、8人で飲む機会があっても、一切銀座での話は出てきません。夢の中の出来事だったんだと思い込む努力をぼくらは続けました。もはやタブーです。誰かが触れたら江崎先生に弁済する流れを生んでしまうと、全員が考えたんでしょうね。打ち合わせも何もしていないのにこの団結力。これぞ棋士の底力と言いたいところですが、何とも器の小さい話ではあります(笑)。
それでも罪悪感は消えず…。ぼくは後年、ついに「あのときは銀座でお世話になりました」と江崎先生にお礼を言いました。すると「ああ」と反応しただけで、お金を返せとは言いませんでした。でもね、悲しいんです。その後まもなく先生は死んじゃった。お礼を言わなければまだ生きていたんじゃないかと。安心させたのがよくなかったんじゃないかと…。今でも切ない気持ちになります。
■『NHK囲碁講座』2016年11月号より

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