コタツに落ちても助けを呼べない──水俣病をもって生まれてきた子どもたち

水俣病を背負いながら生きている人々のなかには、母胎にいるときに有機水銀の影響を受け、生まれたとき、すでに水俣病になっていた「胎児性水俣病患者」と呼ばれる人々がいます。そうした人々との出会いは、石牟礼道子(いしむれ・みちこ)が『苦海浄土』を書くに至った、とても強い動機の一つだと批評家の若松英輔(わかまつ・えいすけ)さんは指摘します。

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苦しいときに苦しいと言い、助けてほしいときにそう声を上げる。当たり前のことだと思うかもしれませんが、胎児性の水俣病患者の人々は、そうしたこともできませんでした。そんな一人の日常を石牟礼は、次のように描いています。
コタツやイロリの火の中に落ちこんだり、あがり框(がまち)から転げ落ちたりせぬよう、そこらを這ったり立ったりできるほどのゆるみを与えられて、背負い帯などで、柱に、皮脂のうすいおなかをつないでおかねばならない。それでも掘りゴタツに落ちてしまったりして火傷し、縁からおちた打傷など、多少の生傷は、たいていの子どもが持っていた。コタツに落ちても、おおかたの子が助けを呼ぶことはできないのである。

(第一章 「椿の海」)



「コタツに落ちても、おおかたの子が助けを呼ぶことはできないのである」。これが水俣病をめぐる現実です。苦しければ私たちは声を上げます。その声さえ奪うのが水俣病です。また、この一節を読むと私のなかでは離れたページにある江津野杢太郎(もくたろう)という少年をめぐって書かれた次の一節が響き合うように浮びあがってきます。
杢は、こやつぁ、ものをいいきらんばってん、ひと一倍、魂の深か子でござす。耳だけが助かってほげとります。何でもききわけますと。ききわけはでくるが、自分が語るちゅうこたできまっせん。

(第四章「天の魚」)



「杢」とは杢太郎少年の愛称です。彼の祖父は、孫は言葉を奪われている、しかし、その分だけ魂が深いと言う。語ることを奪われるような日々を送らなければならなかったが、この子どものなかには賢者の魂が育っている、というのです。
耳だけは全部聞こえていて、全部分かっている。でも語ることはできない。それをおじいさんは「ひと一倍、魂の深か子でござす」と言います。語られないということと、叡知があるということは矛盾しません。現代人は、語られなければそこには何もない、と思いがちですが、そんなことはありません。語られざる叡知はある、ということに石牟礼は気がつく。
『苦海浄土』には、こうした小さな賢者たちの姿が幾人も描かれています。彼、彼女たちは、単にかわいそうな人々ではありません。計り知れないほど深重な人生の意味を教えてくれている魂の先達でもあるのです。
■『NHK100分de名著 石牟礼道子 苦海浄土』より

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石牟礼道子『苦海浄土』 2016年9月 (100分 de 名著)
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