子どもの教育はどうあるべきか──ルソー『エミール』に学ぶ

18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーが、『社会契約論』と同じ1762年に上梓した『エミール、または教育について』は、自由な社会を担いうる人間を育てるための「教育論・人間論」を展開しています。ルソーは、子どもの教育はどうあるべきだと考えていたのでしょうか。東京医科大学哲学教室教授の西 研(にし・けん)さんが読み解きます。

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第一編では、口がきけるようになる以前の、乳幼児期のことが描かれるのですが、具体的な論に入る前に、子どもの教育はどうあるべきか、についての基本的な考え方を示しています。第一編の冒頭はこのように始まります。
万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。(中略)人間はみにくいもの、怪物を好む。なにひとつ自然がつくったままにしておかない。人間そのものさえそうだ。人間も乗馬のように調教しなければならない。庭木みたいに、好きなようにねじまげなければならない。
 
しかし、そういうことがなければ、すべてはもっと悪くなるのであって、わたしたち人間は中途半端にされることを望まない。こんにちのような状態にあっては、生まれたときから他の人々のなかにほうりだされている人間は、だれよりもゆがんだ人間になるだろう。偏見、権威、必然、実例、わたしたちをおさえつけているいっさいの社会制度がその人の自然をしめころし、そのかわりに、なんにももたらさないことになるだろう。
(『エミール』今野一雄訳、岩波文庫、上巻27ページ)
人間は何でも思い通りにコントロールしようとします。教育にもそういう側面、人間を「好きなようにねじまげ」る性格があります。しかし、教育などせずに放置しておけばいいかといえばそうではなく、「すべてはもっと悪くなる」というのです。
ルソーは、よく誤解されるように、単純に「自然へ帰れ」といっているわけではありません。原始の自然状態がよかったとしても、私たちはいまさら原始人に戻ることはできないのだから、現在の人為的な社会関係がさまざまな悪い面をもっているにせよ、それをうまくコントロールしていくしかないとルソーは考えていました。
では、教育の根幹をルソーはどう考えるのでしょうか。それを、「三種類の先生」による「三つの教育」──「自然の教育」「人間の教育」「事物の教育」によって説明しています。
まず「自然の教育」というときの「自然」とは、人間の内なる自然のことを指します。子どもが手足を自由に動かせるようになったりだんだん言葉を覚えたりするのは、人間の内なる自然によるもので、いわば自然そのものが教えてくれる、ということです。次に「人間の教育」とは、親や学校の先生、家庭教師など、大人による一般的な意味での教育のことです。そして「事物の教育」とは、子どもが現実のさまざまなモノやコトに出会って経験から学ぶことを意味します。
「自然の教育」における内的発達には段階があって不変なものなので、これが教育の柱になるべきだとルソーは考えます。つまり、この自然の発達段階に沿うようにして、「事物の教育」「人間の教育」は行われなくてはならないのです。
では、どのような発達段階を人はたどっていくのか。生まれたばかりの子どもは、理性も判断もなく、感覚しかもっていません。触覚・視覚・聴覚・味覚・嗅覚(きゅうかく)などの感覚は未分化で、「快・不快」だけで世界ができています。そこからしだいにそれぞれの感覚が分化・発達していき、運動能力が発達していきます(乳幼児期から児童期)。この時期は、教師はとくに何かを教えこんだりしません。少年期になると教師からの教育がはじまり、「有用なもの」とそうでないものを区別し、色々な事物を積極的に利用することを学びます。思春期・青年期になると、さらに社会や人びとの生き方にも視野を広げ、最終的には理性的な判断をすることを学んでいくことになります。
このような「自然の教育」の歩みに沿うのが教育の基本ですから、幼いときから急いで多くの知識を無理矢理教え込もうとする「促成栽培」は駄目だということになります。身体の感覚や運動能力が十分に発達すると、それを土台にして知性が発達してくるのだから、最初の時期はとくにゆっくりと待たなくてはならない、とルソーは強調しています。
■『NHK100分de名著 ルソー エミール』より

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