親鸞の魅力が伝わる弟子とのリアルな会話

いまから730年ほど前に書かれた『歎異抄』は、浄土真宗の開祖である親鸞聖人を直接知る唯円という人物の手によって、親鸞の語録とその解釈、さらに異端の説への批判を述べるものとしてまとめられました。原稿用紙に換算すると三十枚程度の分量しかないこの小さな書物は、全十八条と、序・中序・後序、そして付録の流罪記録から成り立っています。
如来寺住職・相愛大学教授の釈徹宗(しゃく・てっしゅう)さんは、前半のなかでもとてもドラマチックな条として第九条を挙げています。

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私はこの条を読むと、「唯円さん、よくぞ書いてくれた」と思わずにはおれません。もし第九条がなかったならば、我々の親鸞の印象も違ったものになっていたことでしょう。ここでは唯円と親鸞とのリアルな会話が展開されています。
状況を簡単に説明しますと、まず唯円が親鸞に思い切った告白をするところから始まります。おそらく、たまたま二人だけになる機会があったのでしょうね。このとき、親鸞が八十三歳ぐらいで、唯円が三十三、四歳くらいです。二人は五十歳ほども年齢が離れています。唯円は二人きりの機会に、自分の正直な胸の内を吐露します。すると親鸞は驚くべき応答をするのです。その場面を読んでみましょう。

念仏申し候(そうら)へども、踊躍歓喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかに候(そうろ)ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
(念仏しておりましても、おどりあがるような喜びの心がそれほど湧いてきませんし、また少しでもはやく浄土に往生したいという心もおこってこないのは、どのように考えたらよいのでしょうかとお尋ねしたところ、次のように仰せになりました。
この親鸞もなぜだろうかと思っていたのですが、唯円房よ、あなたも同じ心持ちだったのですね。)
たとえば『無量寿経(むりょうじゅきょう)』というお経には、念仏者の心は喜びに満ちあふれると説かれています。親鸞自身もそのことを何度も著作に書いています。『教行信証』のダイジェスト版のような『浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)』には「無上の信心を獲れば、すなわち大慶喜(きょうき)を得る」とあります。しかし唯円は、そのことを十分理解していながら、自分には喜びがあふれてこないことに悩んでいたのでしょう。それを親鸞に相談します。
すると親鸞は、なんと「わしもそうなんだ」と言い放つのです。若い唯円からしてみれば、親鸞にこの質問を口にすること自体、相当な勇気が必要だったと思います。それにすぐさま同意してみせた親鸞という人物の特性を感じる場面です。そして親鸞は、本来喜びが湧き上がるはずなのに、喜べないからこそ、私たちは救われるのだ──と説くのです。
親鸞よりも六十六年ほど後に生まれる遊行の僧・一遍などは、救われる喜びをみんなで表現しようと鉦(かね)や太鼓で踊躍(ゆやく)念仏(踊り念仏)を実践します。一遍は身体性が豊かで、表現が外へ外へと向かいます。一方の親鸞は、問いが内面へ内面へと進む人ですね。そして苦悩し、悲嘆する。私はどうしても喜べない。しかし、喜べないからこそ救われることに間違いはない。そんな道筋を歩むのです。
親鸞の語りを聞いていると、まるで底に穴の空いた船に乗っているような人だな、と感じます。水が湧くように、煩悩がこんこんと湧き上がってくる。水をかい出すのをやめるわけにもいかず、しかしいくらかい出しても、煩悩が尽きるわけではない。この緊張感や息苦しさ── それこそが親鸞の魅力なのです。彼のパーソナリティ(の一面)は、この第九条の逸話があったからこそ、後年の人々に伝わったのだと思います。
■『NHK100分de名著 歎異抄』より

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