物語が生まれる場所──駅を詠んだ歌

駅は人生と交差する場所。多くの物語が生まれます。「塔」選者の栗木京子(くりき・きょうこ)さんが、駅での忘れ得ぬ出来事が詠まれた歌を紹介します。

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巨大なターミナルには数限りない出会いと別れがあり、乗降客のまばらな小さな駅にも濃密なドラマが刻み込まれています。すでに廃止された駅でさえも、忘れがたい記憶とともに存在しているように思われます。
幼子のわれのケープを落し来て母が忘れぬ瀋陽の駅

佐波(さば)洋子『鳥の風景』


佐波は昭和十八(1943)年に中国の瀋陽(しんよう)(旧奉天〈ほうてん〉)に
生まれましたが、一歳で実母と離れ離れになり、昭和二十年には父が捕虜となってシベリアへ送られることになります。護送列車の窓越しに父との束の間の面会が許されることになり、育ての母(この歌の「母」)に抱かれた彼女は瀋陽の駅に出掛けたのでした。敗戦直後の混乱の中、しかも祖国から遠く離れた中国で、父も母もこれが一生の別れだと覚悟を決めていたことでしょう。群衆に押されながら幼い作者を守ろうとして、母は駅にケープを落としてきてしまいます。その後、父は昭和二十三年にシベリアから帰還、母や作者を伴って日本に引き揚げて一家は平穏な生活を取り戻します。けれども母は長きにわたり、折にふれて失ったケープのことを嘆いていたのです。可愛らしいケープは、瀋陽という駅の名とともに母の胸の中に生き続けていることがわかります。
■『NHK短歌』2016年3月号より

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