フロイトとの出会いと確執

『人生の意味の心理学』の著者アルフレッド・アドラー(1870〜1937)は、今から一世紀ほど前に活躍したオーストリア生まれの心理学者・精神科医である。日本においてはごく最近まで、その名をほとんど知られていなかったが、欧米ではフロイトやユングと並ぶ「心理学の三大巨頭」の一人として高く評価されてきた。哲学者・日本アドラー心理学会認定カウンセラーの岸見一郎(きしみ・いちろう)氏は、アドラーとフロイトの関わりについてこう語る。

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1895年に大学を卒業したアドラーは、最初は眼科医として働き、後に貧しい人々が多く住むレオポルトシュタットに診療所を開業し、内科医として患者の治療にあたることになります。診療所の近くにはプラーター遊園地があり、患者の中には遊園地で働く軽業師や大道芸人がたくさんいました。アドラーは並外れた体力と技で生計を立てている彼らの多くが、生まれついての虚弱さに苦しみながら、後に努力してその弱さを克服したことを見ていました。自分自身の病弱を克服したことと相まってアドラーは彼らの「器官劣等性」に関心を持つようになります。器官劣等性とは、生活に困難をもたらすような身体的なハンディキャップのことです。ハンディキャップを持っている人は、そこから生じるマイナスを何かで補償しようとします。それが何らかの形で性格形成や行動に影響を与えているとアドラーは考えたのです。後にアドラーは、客観的な劣等性から主観的な劣等感へと関心を移すことになります。器官劣等性が必ず劣等感を引き起こすわけではないことを自分の経験からも知っていたからです。
当時のアドラーは健康や病気と社会的要因の関係について興味を持ち、『仕立業のための健康手帳』と題する公衆衛生に関する小冊子を刊行しています。社会主義にも傾倒していました。大学を卒業した二年後に、ライサ・エプシテインというロシア人女性と結婚しましたが、二人はウィーンで開かれていた社会主義の勉強会で知り合いました。
その後、アドラーは1900年に出版されたフロイトの著書『夢判断』を読んだのをきっかけに、精神医学に興味を持つようになります。当時批判的な意見が多かった『夢判断』について、フロイトを擁護する投書をアドラーが新聞社に送り、それを知ったフロイトが自分の主宰するセミナーに招待したのが、二人の交流のはじまりと伝えられています。
フロイトのセミナーは後に「ウィーン精神分析協会」へと発展し、中核メンバーだったアドラーは会長を務めるまでになりますが、組織が大きくなるにつれて会の雰囲気は変わっていきました。当初は会員たちがお互いを認め合い、協力しながら研究を行っていましたが、徐々にメンバー間の競争が激しくなり、対立することが増えていきました。
そうした動きにもアドラーは同調することなく、争いの調停役に徹していましたが、結局は1911年に会を離脱してしまいます。退会を決心した一番の理由は、フロイトとの学説の相違です。フロイトが「リビドー(性的欲求)」が人間のパーソナリティの基礎であると考えたのに対し、アドラーが劣等感をリビドーに代わるものとして持ち出し、フロイトの理論とは相容れない理論を提唱したことはフロイトにとって脅威以外の何ものでもありませんでした。後に見るアドラーの目的論も、心の苦しみの原因を過去と客観的な事実に見るフロイトの理論とはまったく異なった見解でした。九人の仲間とともに協会を脱退したアドラーは「自由精神分析協会(翌年に個人心理学会と改称)」を新たに設立しました。
アドラーはその後も、自分が「フロイトの弟子」と呼ばれることを非常に嫌っていました。アドラーは生涯、自分が対等の研究者としてフロイトの研究会に招かれたということを示すために、フロイトから受け取った招待状を持ち歩いていました。
■『NHK100分de名著 アドラー 人生の意味の心理学』より

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