「誰の子でもない」という意識

哲学者であり、小説家であり、劇作家でもあったジャン゠ポール・サルトル。1980年の彼の葬儀の日には、5万人もの人々が病院から墓地までの沿道に並び、最後の別れを告げたという。それほどまでに愛されたサルトルだが、フランス文学者の海老坂 武(えびさか・たけし)氏はサルトルを「父なき子」と表す。サルトルの生い立ちをたどってみよう。

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ジャン゠ポール・サルトルは1905年6月21日、パリに生まれました。父親は、フランス南西部出身の医者の息子で、パリの理工科学校(エコール・ポリテクニーク)というエリート校を出て、海軍に入り、船に乗ってインドシナあたりまでの洋上任務にあたったという人です。背丈が1メートル56センチであったそうで、息子のジャン=ポールよりも1センチ低かったことになります。
そしていったんフランスに帰国したとき、同期生の妹と結婚する。それがアルザス(フランス北東部)出身のドイツ系フランス人である、サルトルの母親です。旅先で病気になった父親は、サルトルが1歳をちょっと過ぎた頃に亡くなってしまいます。
残された母親とサルトルは、パリ郊外ムードンにあった母方の実家の祖父母に引き取られます。アルザス出身の祖父シャルル・シュヴァイツァーは有名なアルベルト・シュヴァイツァー博士の伯父にあたる人で、ドイツ語の教師でした。つまりサルトルの母親とシュヴァイツァー博士は、いとこ同士にあたります。サルトルはのちに自伝『言葉』(1963年)の中で、その頃の暮らしのことを「幸福な10年間」と呼び、父親が早くに死んだことを自分の幸運の一つに数えている。
父親の権威や抑圧を知らずに自由に育ったということで、「父なき子」である自分はすなわち誰の子でもない、という意識を彼に与えたのかもしれません。幼い頃から祖父の書斎を遊び場として、書物に囲まれ書物からさまざまな知識を得て、「書物人間」として育っていきます。
「私は土をほじくり返したり、鳥の巣を狙ったりしたことは一度もないし、植物の採集をしたり、小鳥に石を投げたこともない。しかし本が私の小鳥であり、巣であり、家畜であり、家畜小屋であり、畑であった」

(『言葉』)



一方でサルトルは、4歳の頃に右眼をほぼ失明、強度の斜視になります。そして7歳のとき、自分の「醜さ」というものを発見させられる。祖父が彼を床屋に連れていき長い髪を切らせていたとき、母親が息子の顔の醜さに気づき卒倒しそうになったというのです。それ以後、誰も彼の写真を撮らなくなり、たまに撮った写真も母親が隠して誰にも見せない。
11歳のときに母親が再婚して、ラ・ロシェルという大西洋岸の港町に移ります。それまで祖父母や母との蜜月時代を過ごしていたサルトル少年にとって、義父とは侵入者であり、それは楽園の喪失を意味しました。死んだ父の同級生だった義父は造船所の所長で、金持ちです。すでに文学少年となっていたサルトルは、理工系の権威的な義父とそりが合わず、大嫌いになっていく。そこでまた、自分は誰の子でもないという意識を強めていく。
ラ・ロシェルの学校では、パリから来た生意気な転校生で、おまけに背が低いということもあって、同級生からいじめられる。それに対抗するため、口が達者な彼はほら吹きになり、その噓がばれてさらに笑われると、こんどは「力」に訴えて、しだいに乱暴な少年に育っていく。またこの頃からすでに、根拠もなく自分が天才であると思い込みはじめ、ものを書きたいという意欲も高まっていったのですが、これははみだし者の自意識、反抗心と無関係ではないかもしれません。
15歳でサルトルはパリに帰り、10歳の時に学んでいたアンリ四世校に復学。生涯の友人となるポール・ニザンとの再会を果たします。彼もまた斜視でした(サルトルは外側に、ニザンは内側に向いた斜視)。ニザンはのちに『アデン アラビア』(1931年)という旅行記を書いて作家として踏み出します。アンリ四世校を終えた後、二人は一応大学に籍を置くのですが、さらに高等師範学校(エコール・ノルマル)を受験するため、ともにルイ大王校という寄宿制のエリート校に入り、二年後、成績優秀で高等師範に進む。この高等師範時代、サルトルはニザンのほかに、レーモン・アロンという、のちに哲学者となる友人を得ます。
また、恋愛を最初に経験したのもこの時代で、シモーヌ・ジョリヴェという女性にさんざん翻弄(ほんろう)されるのですが、彼女がのちに『嘔吐』のロカンタンの元恋人アニーのモデルとなります。
この高等師範時代はサルトルにとって幸福な四年間だったようですが、彼はいつも冗談やほら話や猥談(わいだん)ばかり口にして、挑発的に悪ふざけを繰り返し、タキシードを着て気取った同級生に水をぶっかけたりもしている。プルーストの作品名をもじった『花咲ける若き間抜け面のかげに』というレヴューを書いて上演して校長を諷刺(ふうし)し、スキャンダルになったこともあります。鉄棒で筋肉を鍛え、ボクシング・ジムに通いはじめたのもこの頃です。友人のニザンは、「ボクシングをするサルトル」という漫画を描いてからかいましたが、「力」というのも、サルトルの作品にしばしば出てくる大事なテーマの一つです。
■『NHK100分de名著 サルトル 実存主義とは何か』より

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