『実存主義とは何か』とは何か
戦後間もない混乱期の1945年、ジャン=ポール・サルトルは講演「実存主義とはヒューマニズムである」の中で、「実存」という概念を世に広く知らしめた。フランス文学者の海老坂 武(えびさか・たけし)さんに、この講演のポイントを解説していただいた。
* * *
新進の哲学者であり、小説家・劇作家でもあったサルトルを一躍有名にしたのが、1945年の10月、パリでおこなわれた講演「実存主義はヒューマニズムである」でした。その講演を翌年出版した本が、『実存主義とは何か』です。講演当日、会場のクラブ・マントナンには数多くの聴衆が押しかけ、入りきれない人々が入り口に座り込んでいたといいます。そして翌日の新聞では、この講演会が文化的事件として大々的に報じられました。
1945年という年はどういう年だったでしょうか。言うまでもなく第二次世界大戦が終結した年です。日本はいま戦後70年ですが、フランスも同じです。終戦の時期は日本より少し早くて5月ですから、この講演は終戦から数か月後におこなわれたということです。もちろん敗戦国の日本とは違って、フランスは戦勝国です。ともかくもナチス・ドイツの占領から解放されたという、自由を謳歌する気分は当然あったでしょう。
しかしその一方で、現実はそれほど明るいものではなかった。戦争による破壊の爪跡も大きかったし、生活面では依然として食糧難が続き、失業や貧困もある。とりわけ大きかったのは、時代にたいする人々の不安です。
まず一つには、ナチスの強制収容所におけるユダヤ人虐殺の事実が、次々に明るみに出てきた。それは、人間はかくも残虐になりうるのだという震撼(しんかん)すべき事実の証明でもありました。
もう一つは、広島・長崎に投下された原爆です。アラン・レネの映画『二十四時間の情事』(『ヒロシマ・モナムール』1959年)の一場面にあるように、その惨禍(さんか)もフランスにすぐ伝えられています。広島・長崎の原爆は、人類が人類全体を破滅させうる技術を手にしたことを、恐怖とともに全世界に知らしめた。サルトルは1945年8月執筆の「大戦の終末」という文章で、原爆について次のように書いています。
「もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう」
そのように、一方には戦争が終わったという解放感がありつつも、他方では社会全体が希望の見えない不安に覆われている。そんな時代の気分は、日本でも同じように広がっていた。たとえば坂口安吾や太宰治、石川淳といった作家たちが、戦後すぐに書いた作品を読むと、やはり解放感と不安とが混在している様子がわかります。
■「実存は本質に先立つ」とは
この講演にはいくつかのポイントがあって、実存主義を説明するわかりやすい二つの定式が提示されています。
第一の定式が、「実存は本質に先立つ」。
第二の定式は、「人間は自由の刑に処せられている」。
「自由の刑に処せられている」というのは、「人間は自由に運命づけられている」という別の言い方をしてもいいでしょう。そこでは、「自由」と「運命」という逆説的な関係が暗示されています。
さて今回は、第一の定式について、少し考えてみたいと思います。「実存は本質に先立つ」とは、いったいどういうことなのか──。
「実存」というのは、現にこの世界に現実に存在するということ。他方「本質」とは、目には見えないもので、物の場合ならば、その物の性質の総体、要するに、どんな素材であるのか、それはどのようにつくられるのか、何のために使われるのか、といったことの総体です。
ここで例に挙げられているのは、ペーパーナイフです。その製造法や用途を知らずに、ペーパーナイフという物をつくることはできない。ペーパーナイフとはどういうものかを、あらかじめ職人は知っている。だから職人はその本質を心得ながら、ペーパーナイフという実際の存在、実存をつくる。つまりこの場合には、「本質が実存に先立つ」わけです。それはペーパーナイフに限らず、書物でも、机でも、家でも、みんな同じです。
では、人間の場合はどうか。もちろん神が存在して、神が人間をつくったと考えれば、ペーパーナイフとまったく同じことになる。神の頭の中にまず、人間とはどういうものかという本質があり、それから人間の実存がつくられるということでは、同じです。この「本質が実存に先立つ」という考え方は、実は18世紀になってからの無神論でも同じことです。18世紀は、ルソーなどに見られるように、「自然」を尊重した時代です。哲学者たちは「人間は人間としての本性をもっている」ので、「それぞれの人間は、人間という普遍的概念の特殊な一例である」と考えた。「本性」も「自然」も、フランス語では同じ「ナチュール」(nature)で、「ナチュール・ユメーヌ」(nature humaine)というと、「人間本性」すなわち「人間本来の自然なかたち」という意味です。この場合でも、人間の自然な本質が、個々の人間の実存に先立っているとしたわけです。
ところがサルトルは、人間の場合はそうではない、と主張する。逆に「実存が本質に先立つところの存在」こそ人間である、と彼は宣言するのです。
実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(中略)人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。
人間はまず先に実存し、したがって、自分の本質というのはそのあとで、自分自身でつくるものだ、というのがサルトルの考え方です。「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」、これが「実存主義の第一原理」です。
そしてそこから、みずから主体的に生きるという「主体性」の概念が出てきます。みずからをつくるということは、未来に向かってみずからを投げ出すこと、すなわち、みずからかくあろうと「投企」することだ、と。
この耳慣れない「投企」という概念は、フランス語の「プロジェ」(projet)です。普通は「計画」という意味ですが、「前へ(プロ)/投げる(ジェ)」というニュアンスがわかるように、哲学用語としてそう訳されているのです。
「主体性」や「投企」という概念、そこから何かを「選択」する「自由」という概念、あるいは自分で選ぶということに伴う「責任」、そのことへの「不安」、また自分ひとりで決めることの「孤独」と、一連の概念がずっとつながって、そこに実存主義という考え方の基本的図式が浮かび上がってきます。
■『NHK100分de名著 サルトル 実存主義とは何か』より
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新進の哲学者であり、小説家・劇作家でもあったサルトルを一躍有名にしたのが、1945年の10月、パリでおこなわれた講演「実存主義はヒューマニズムである」でした。その講演を翌年出版した本が、『実存主義とは何か』です。講演当日、会場のクラブ・マントナンには数多くの聴衆が押しかけ、入りきれない人々が入り口に座り込んでいたといいます。そして翌日の新聞では、この講演会が文化的事件として大々的に報じられました。
1945年という年はどういう年だったでしょうか。言うまでもなく第二次世界大戦が終結した年です。日本はいま戦後70年ですが、フランスも同じです。終戦の時期は日本より少し早くて5月ですから、この講演は終戦から数か月後におこなわれたということです。もちろん敗戦国の日本とは違って、フランスは戦勝国です。ともかくもナチス・ドイツの占領から解放されたという、自由を謳歌する気分は当然あったでしょう。
しかしその一方で、現実はそれほど明るいものではなかった。戦争による破壊の爪跡も大きかったし、生活面では依然として食糧難が続き、失業や貧困もある。とりわけ大きかったのは、時代にたいする人々の不安です。
まず一つには、ナチスの強制収容所におけるユダヤ人虐殺の事実が、次々に明るみに出てきた。それは、人間はかくも残虐になりうるのだという震撼(しんかん)すべき事実の証明でもありました。
もう一つは、広島・長崎に投下された原爆です。アラン・レネの映画『二十四時間の情事』(『ヒロシマ・モナムール』1959年)の一場面にあるように、その惨禍(さんか)もフランスにすぐ伝えられています。広島・長崎の原爆は、人類が人類全体を破滅させうる技術を手にしたことを、恐怖とともに全世界に知らしめた。サルトルは1945年8月執筆の「大戦の終末」という文章で、原爆について次のように書いています。
「もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう」
そのように、一方には戦争が終わったという解放感がありつつも、他方では社会全体が希望の見えない不安に覆われている。そんな時代の気分は、日本でも同じように広がっていた。たとえば坂口安吾や太宰治、石川淳といった作家たちが、戦後すぐに書いた作品を読むと、やはり解放感と不安とが混在している様子がわかります。
■「実存は本質に先立つ」とは
この講演にはいくつかのポイントがあって、実存主義を説明するわかりやすい二つの定式が提示されています。
第一の定式が、「実存は本質に先立つ」。
第二の定式は、「人間は自由の刑に処せられている」。
「自由の刑に処せられている」というのは、「人間は自由に運命づけられている」という別の言い方をしてもいいでしょう。そこでは、「自由」と「運命」という逆説的な関係が暗示されています。
さて今回は、第一の定式について、少し考えてみたいと思います。「実存は本質に先立つ」とは、いったいどういうことなのか──。
「実存」というのは、現にこの世界に現実に存在するということ。他方「本質」とは、目には見えないもので、物の場合ならば、その物の性質の総体、要するに、どんな素材であるのか、それはどのようにつくられるのか、何のために使われるのか、といったことの総体です。
ここで例に挙げられているのは、ペーパーナイフです。その製造法や用途を知らずに、ペーパーナイフという物をつくることはできない。ペーパーナイフとはどういうものかを、あらかじめ職人は知っている。だから職人はその本質を心得ながら、ペーパーナイフという実際の存在、実存をつくる。つまりこの場合には、「本質が実存に先立つ」わけです。それはペーパーナイフに限らず、書物でも、机でも、家でも、みんな同じです。
では、人間の場合はどうか。もちろん神が存在して、神が人間をつくったと考えれば、ペーパーナイフとまったく同じことになる。神の頭の中にまず、人間とはどういうものかという本質があり、それから人間の実存がつくられるということでは、同じです。この「本質が実存に先立つ」という考え方は、実は18世紀になってからの無神論でも同じことです。18世紀は、ルソーなどに見られるように、「自然」を尊重した時代です。哲学者たちは「人間は人間としての本性をもっている」ので、「それぞれの人間は、人間という普遍的概念の特殊な一例である」と考えた。「本性」も「自然」も、フランス語では同じ「ナチュール」(nature)で、「ナチュール・ユメーヌ」(nature humaine)というと、「人間本性」すなわち「人間本来の自然なかたち」という意味です。この場合でも、人間の自然な本質が、個々の人間の実存に先立っているとしたわけです。
ところがサルトルは、人間の場合はそうではない、と主張する。逆に「実存が本質に先立つところの存在」こそ人間である、と彼は宣言するのです。
実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(中略)人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。
(『実存主義とは何か』)
人間はまず先に実存し、したがって、自分の本質というのはそのあとで、自分自身でつくるものだ、というのがサルトルの考え方です。「人間はみずからつくるところのもの以外の何ものでもない」、これが「実存主義の第一原理」です。
そしてそこから、みずから主体的に生きるという「主体性」の概念が出てきます。みずからをつくるということは、未来に向かってみずからを投げ出すこと、すなわち、みずからかくあろうと「投企」することだ、と。
この耳慣れない「投企」という概念は、フランス語の「プロジェ」(projet)です。普通は「計画」という意味ですが、「前へ(プロ)/投げる(ジェ)」というニュアンスがわかるように、哲学用語としてそう訳されているのです。
「主体性」や「投企」という概念、そこから何かを「選択」する「自由」という概念、あるいは自分で選ぶということに伴う「責任」、そのことへの「不安」、また自分ひとりで決めることの「孤独」と、一連の概念がずっとつながって、そこに実存主義という考え方の基本的図式が浮かび上がってきます。
■『NHK100分de名著 サルトル 実存主義とは何か』より
- 『サルトル『実存主義とは何か』 2015年11月 (100分 de 名著)』
- NHK出版 / 566円(税込)
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